「潜水服は蝶の夢を見る」「夜になるまえに」のジュリアン・シュナーベル監督が画家フィンセント・ファン・ゴッホを描き、2018年・第75回ベネチア国際映画祭で、ゴッホ役を演じた主演ウィレム・デフォーが男優賞を受賞した伝記ドラマです。やっと当地で観ることができました。
ゴッホの目を通して、ゴッホが見た世界を自分の目で見るという作品。独特なカメラの動きと時の進め方で、夢(幻覚)の世界を彷徨った気分でした。ゴッホの生き様を知ってこそ彼の絵を理解できると思いました。
絵のことは分かりませんが、近くに大原美術館があり、ゴッホには興味をもっていました。ゴッホの死の真相を明かす物語「ゴッホ最期の手紙」(2017)では「芸術家の死の原因なんぞ分からない」というものでした。
しかし、
本作でははっきりと少年に撃たれた、それが死の原因だとなっています。
これは、シュナーベル監督が「ゴッホは正気で描いた!」と主張しているからだと思います。映像からは、絵を描くゴッホは“正気だった”と感じました!!
脚本はジャン=クロード・カリエール。共演はルパート・フレンド、オスカー・アイザック、マッツ・ミケルセンらです。
あらすじ:
画家としてパリで全く評価されないゴッホ(ウィレム・デフォー)は、出会ったばかりの画家ゴーギャン(オスカー・アイザック)の助言に従い南仏のアルルにやってくるが、地元の人々との間にはトラブルが生じるなど孤独な日々が続く。やがて弟テオ(ルパート・フレンド)の手引きもあり、待ち望んでいたゴーギャンがアルルを訪れ、ゴッホはゴーギャンと共同生活をしながら創作活動にのめりこんでいく。しかし、その日々も長くは続かずふたりは袂を分かち、ゴッホが耳を切り精神病院に・・・。
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ゴッホが画家として開眼して死までの2年間の作家生活が、ひたすら画題を求めて野を走り描く姿と弟テオ、アルルでともに生活したゴージャン、彼の闘病に立ち会ったレー医師やガシェ医師、聖職者(マッツ・ミケルセン)と交した会話で綴られていまます。
ゴーギャンとの共同生活が決定的に彼の作家性に影響を与え、その作家性は、聖職者とガッシェの会話で明らかにされますが、宗教的・文学的で難しい!
映像は光を印象的に捕え美しい。そして、撮影が独特で、画題を求めて走るゴッコの目線を手持ちカメラで追う画面に酔ってしまいました。しかし、筆を持ち描く手先の行方は、画題の構想をすべて飲み込んでいるようで、とても的確でした。“正気”でした。しかし、絵を描き終えると画面が暗転し、事件が起きる。この物語の進め方が面白い!
ゴッホ役のウィレム・デフォーの演技、「これがゴッホか!」と思うほどの出来でした!特に筆を持ち描き出す手先の滑らかさとその速さ! ゴーギャンが貶す構想の早さと描くスピードを具現していました。相当に練習を積んだんでしょうか。精神的な苦悩を抱えた表情もみごとでした。
****(ねたばれ)
タイトルの前に、ゴッホが“永遠の門”をくぐり農道を走り、農婦に「怖がらないで!モデルで君を描きたいんだ!」と叫ぶシーン。彼がゴッホとして目覚めた瞬間。これは正気か?狂っているか? 翻って、ここにいたるまでの経緯が語られます。
1887年、パリのレストラン・デュ・シャレに展示したゴッホとゴージャン。「こんな絵は売れない」と出品作が取り外される。ゴージャンは「お前には(画商の)弟テオがいるからいい、アルルで描け!」と勧めて出て行った。このときゴッホは「(そこは)日本か?」と聞くところが面白い。当時、ゴッホは浮世絵に大きな影響を受けて作風を一変させていたという。
ゴッホは「新しい光を見つけよう」と列車で南フランス・アルルにやってきた。着いたときは冬だった。それでも彼は光を求めて歩き続けた。見つからない、小屋のなかで靴を脱ぎ、この靴をスケッチする。絵具をキャンパスに落とすと、頭にはしっかりと構想ができており、またたく間に見事に絵に仕上がる。ここでのデフォーの演技がすばらしい。
毎日野に出掛け光を探す。草木が芽を吹き出し、竹で筆を作り、土を顔にかけて自然を嗅ぎ、明るい光を求めて崖っぷちを登り、丘の上からスケッチブックに竹筆で描く線が、いつのまにか風景に変化していく。この演出がすばらしい。絵を描く醍醐味を感じます!
ジヌー夫人が勧める「黄色い屋根」の家を宿にして、「シェイクスピアのマクベスが好きだ」と夫人と語りながら夫人の自画像を描く。雨の日は自画像や花、晴れれば外に出て光を求め、「平らな風景が永遠に思える。存在する理由がある」と、黄色な麦畑の中で製作活動に浸っていた。
スクリーンが暗転!
大きな木の幹を描いているとき、通りがかった子供たちに「おかしな絵!」と貶され石を投げられたことで喧嘩! ゴッホにはこのときの記憶がない。彼は病院で目覚めた。見舞いに来たテオに「時々頭はおかしくなるんだ。幻が見える、天子だったり花が話しかけてくる」と不安を訴えた。テオは「手紙と絵を送ってくれ!」と慰め、パリに戻っていった。
テオの配慮でゴージャンがアルルにやってきた。ゴッホは再会を喜び、弟からの仕送りがあるから一緒に住もうと「黄色い家」でのふたりの絵を描く毎日が始まった。
ゴッホはキャンバスを持って野外に画題を求めて出て行く。一方、ゴーギャンは室内でモデルを前に思索を練りゆったりと描く。絵を描くスタイルが全く異なる。
ゴーギャンが「心で見えるものは何か?」と問うと「自然を見ると全ての紐が解かれる。目覚めると何をしているか分からない。自然は頭の中にある」と応じた。
ゴーギャンは「印象派、スーラは科学と混同している。ルノワールもモネも信用できない。今や俺たちの時代だ!モネの時代ではない」と語り、ふたりは意気投合していく。
ある日、野外から戻るとゴーギャンがモデルを前に描いていた。ゴッホも画台を拡げ書き始めた。ゴーギャンが書き終えモデルが帰ってもゴッホが書き続け、大きな絵を描き終えた。ゴージャンが「もっとゆっくり描け!」と言うと「絵は一筆で描くものだ!」と応え、ゴーギャンが「君は速すぎる。それに粘土の絵だ」と貶した。
ゴッホは美術館に出掛け、ゴヤ、バラスカ、ドラクロワらの大きな絵を観て、「俺が見た画家は大きな画を早く描く」と確信を持った。しかし、ゴーギャンは性格が違いすぎるとパリに帰っていった。
ゴッホはゴーギャンとの別れを嘆き悲しみ、耳を切り落として彼に送った。
ゴッホを診断したレー精神病医師に「何故耳を送ったかは分からない。僕の中には何かが居る。誰にも見えないものが見える!これを見えない人に見せたい!生きるとは何かを示したい!」と訴えた。レー医師は、「絵を描きなさい。酒をやめなさい、いい治療受けるとよい」とサン=レニ精神病院を紹介した。
ゴッホの絵は「自然が全て歪められている。芸術から離れている」と評価され、売れることはなかった。
入院中もゴッホは、糸杉やオリーブ園をモチーフに描いた。ある日、患者に「12年間、太陽を見るこのなく過ごした少女」の話を聞かされ、「太陽だ!」と麦畑の絵を描き、スケッチブックを持って、院外に飛び出しモデルをお願いしたのが冒頭のシーンでした。
連れ戻されたゴッホにゴーギャンからの手紙が届いていた。「君の絵を観た。自然を愛でる絵を交換したい」というものだった。ゴーギャンにとってゴッホは忘れられない人だった。
神父(マッツ・ミケルセン)から「これが絵ですか?なぜこの絵を描くか?」と問われ、「神が苦しめるために絵の才をくれた。もしかしたら時間を間違えたかもしれない。未来の作家だ!」と応じた。神父はゴッホの退院を認めた。
テオの計らいでパリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズで美術好きの精神医ガシェに主治医になってもらい最後の2か月を過ごした。
ガシェを描きながら「描くのは考えるのを止めるためだ。自分の描いた絵を分かち合いたい。世界を変えられると思ったが、今は永遠の門だ。でなければ芸術に意味がない。よい絵のためには失敗もある。病が絵を生む!俺の人生を狂気というのも最高だよ」と笑った。
ゴッホが大豪邸を描いていて少年に銃で撃たれ、「誰のことも責めるな!」と言葉を残して亡くなった。
1890年7月29日37才で亡くなった。ここでの滞在80日間で75点の作品を残していた。棺は沢山の絵の中に安置されたが、持ち去る者はいなかった!!