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「激動の昭和史 沖縄決戦」 (1971)今、観るべき戦争映画です!

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WOWOW、戦後75年東宝8.15シリーズのなかで放送されたもの。監督が岡本喜八さんで、脚本が新藤兼人さん。撮影が村井博さん。出演者は小林桂樹仲代達矢丹波哲郎さんのほかそうそうたる面々です。

沖縄防衛軍として創設された32方面軍。戦い方で大本営との確執の中、島民の協力を得て洞窟を利用した強靭な陣地を準備し、6倍以上の圧倒的な米軍兵力を迎え粘り強く戦ったが、遂に南部山岳地に追い詰められ軍としての戦を放棄する。軍は幾さを放棄しても米軍は攻めてくる、残された島民の運命は?と問いかける作品です。

戦に翻弄される島民の姿が生々しく描かれ、見方を変えれば島民が主役の作品。戦に苦しむ島民の姿がしっかり描かれ、戦争映画のなかで特筆すべき映画ではないでしょうか。

32軍と大本営の確執は、まさに今のコロナウイルス感染症対策における政府と都道府県との確執。この確執のなかで苦しむ!健気に頑張る!国民の姿がかっての沖縄の人々に重なります。大本営が現地を知らず、上目線で、恰好良く、自分の保身のためとしか言えない案を押し付けてくるこの官僚体質にうんざり。

高級将校たちの責任が厳しく追及されています。牛島司令官、長参謀長の自害。作戦を立案・指導した八原高級参謀の最後(米国に留学し米軍の捕虜扱いを知っていた?)。彼が仮装して捕虜になったこと。言葉がない!

戦争シーンや自決、病院治療活動など、CGのなかった時代でありながらとてもリアルで、カメラワークに工夫がなされ戦争の残酷さを余すところなく描き出しています。

クリント・イーストウッドの「硫黄島からの手紙」(2006)がとても評判のよい作品ですが、これを数段超えていると思われる作品が30年前に出来ていたことに驚きです。今、観るべき戦争映画だと思います!


BATTLE OF OKINAWA 激動の昭和史 沖縄決戦 - Original Trailer

あらすじ(感想):

昭和17年8月7日、がダルカナルで敗北。以降米軍の北上作戦が開始され、昭和19年7月7日、サイパンが玉砕。いよいよ本土への攻撃が予想されるなかで沖縄防衛強化が叫ばれ、7月以降、29師団、24師団、さらに44独立旅団を基幹とした第32軍が創設された。8月、軍司令官として牛島中将(小林桂樹が着任、長参謀長(丹波哲郎)、八原高級参謀(仲代達也)とともに軍の指揮を執ることになった。

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八原は、大本営の沖縄を浮沈空母として航空決戦構想はすでに破綻していると、首里を中核として師団を重畳に配置し、敵を陣地に乗せて戦うマナ板戦法を採った。牛島はこれを聞いて、第2次攻撃にどう対処するかと問うと、八原は摩文仁の自然洞窟で戦うと答え、これにぎょっとした表情を見せる牛島の表情。

この作戦のために学童の疎開を推進。8月、トカラ列島沖で米潜水艦に沈められるという対馬丸の悲劇に見舞われ、以後島民の疎開は島内となった。

9月に大本営は32軍が航空基地を放棄していることに反発し釜井航空参謀(玉川伊佐男)を派遣し基地整備を進め、その機能を回復した。どこまで本気で大本営が航空決戦を考えていたか?真夏の中で作業に当たる兵士には耐えらなかったと思う。

10月米軍の、空襲が始まる。残った建物が県庁だけという有様。11月、砲兵火力演習で威力を確認。青ガエル作戦として特殊艇の配備を完了。

ところが、ここにきて、大本営はレイテ決戦を企図し、沖縄から9師団を取り上げた。これが沖縄作戦に大きな影響を与えた。

9師団が抜けた後を埋める陣地の再配備。人の掘った穴で死ぬ気で戦えますか?机で物を考える人には分からない!

兵力増強のために2万人の県民が2等兵になり、中学1年生以上の男子学童500名の女子が看護婦として徴用された。

昭和20年1月、大坂府内政部長から島田叡(神山繁が知事として着任。県民の島内北方地区疎開が開始されるが、その大半が軍の後方なら安全と南部に疎開、その数30万人。これがのちに大きな悲劇となった。

3月24日より米軍の艦砲射撃が始まった。32軍司令部、県庁が首里地下壕に移動。298名の一高女子生が看護婦として陸軍病院に勤務することになった。

3月25日、師範生285人に卒業し、同時に召集令状が渡された。特攻機9機(武剋隊)に神航空参謀から出撃命令が下令され、軍司令官監視のなかで実行された。

米軍の一部が慶良間列島渡嘉敷に上陸。守備部隊は全滅。この際、隊長?から村民に「全員自害せよ」の命令が下され、1発の手榴弾に2~30人が集まり爆破、あるいは互いがこん棒で殴り合い、またカミソリで自害し、394人が亡くなった。この出来事を監督は自信を持って事実として描いている。むごい映像です!

4月1日未明、米軍の上陸開始。嘉手納手面に配備されていた加賀谷支隊長(高橋悦史)が本部に「米艇のため海の色が見えない!艇が7分で海が3分だ」と報告。熾烈な艦砲下の敵との闘いは加賀谷支隊の戦闘経過で描いている。

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配属されていた一中鉄血勤皇隊古波生徒(藤田漸)が爆薬を背負い敵戦車に体当たりする、また夜間攻撃で奇襲するなど壮絶な戦闘が続く。

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米軍の上陸に合わせ、連合艦隊がこの作戦に加入するため飛行場使用の可否を大本営に確認する。

32軍では飛行場を確保するため攻撃に出るか否かが論ぜられ、八原は反対、長が賛成し、軍司令官の決を仰いだ。牛島の決心は「実施する!」だった。

4月5日から九州鹿屋基地の第5航空隊による菊水作戦(特攻)が開始され、「ここで決戦しなければ勝つ機会はない」と戦艦大和が6日出撃した。

32軍は7日総攻撃を実施すると決めたが、米軍にさらなる増援があることが分かり中止した。この時点での賀谷支隊の戦死者は将校11人、下士官232名で、すでに支隊としての能力を失っていた。

大本営本部長が「32軍が陣地を出るのは容易でない」と「4月8日攻撃せよ」と電文で攻撃を催促した。八原が「無理」とこれに反対。長も「9Dを取り上げたせいだ」と八原に同意した。

西岡少尉(樋浦勉)の率いる切り込み隊で神山島を襲撃。重砲2門、重機2丁を破壊したが帰還したのは西岡以下5人だった。98式臼砲で敵第一線を叩き上げ、嘉数配置部隊の善戦が続く。

4月12日、長参謀長が「海軍が必殺の攻撃をかけている」と夜間攻撃を言い出した。八原は反対したが強行された。2個大隊が全滅した。

この夜襲で南風原陸軍病院は泣き叫ぶ負傷兵で溢れた。医者も医療器具、薬不足。目軍医(岸田森)はひめゆり隊員に足を押さえ、鋸でその足を切り落す。壮絶な医療現場が写し出される。

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菊水作戦は続いていた。特攻隊員の遺書が空しい!

4月29日、天長節長参謀長が24師団、44独立旅団はまだ無傷だ。決戦をやらうと提案。八原は勝ち目がないと反対。

このとき司令部に敵砲弾が落下し、大騒ぎになった。長は八原に「ここで一緒に死なんか!」と浪花節で八原を泣き落とし、5月4日決行と決まった。

この攻撃に小禄海軍陸戦隊司令官大田実少将(池部良)を誘ったが、武器が不足していると参加を断られた。

5月4日、総攻撃開始。200門の火砲の集中弾で順調に攻撃前進。八原は「この後が問題だ!」と呟いた。

インターミッション:

感想:

5月5日、敵戦車の進出で被害続出。負傷兵を同行できず薬の代わりに手榴弾を与える始末。62師団の伊藤大隊では550人中252人が戦死という状況。もはや大隊は壊滅と言ってよい。夜、男子師範斬込隊が出陣してゆく。生き残りはたったの5名だった。

大本営は義烈空挺隊を送ることで沖縄戦に見切りをつけた。

これからの32軍の戦い方は? 八原の「米兵を沖縄に釘づけにする」として南部に転進する」案に決まった。44旅団の京僧参謀(平松慎吾)が「作戦を教えて欲しい」と質問する。旅団の参謀がこの時点でこの質問、この作戦が成功するとは思えない。62師団参謀長上田大佐(中谷一郎)は「ここで玉砕したい」と訴えた。

島田知事は「30万の県民を脱出させて欲しい」に訴え、牛島司令官の答えは「軍人はあらゆる努力をしなければならない。分かってください」というものだった。

ここから厳しい南部洞窟陣地への転進(後退)。

病院では重傷者を残置し、雨のぬかるみのなか移動開始した。残された兵はカミソリで首を斬り、毒を飲み死んでいった。南風原陸軍病院では2000名が自決したという。

片足を失った兵が「生きたい!」と泥濘の道を居ざる。一旦橋付近で敵戦車に襲われ蹂躙される。出会った婦人は子供の脚を抱えていた。キャベツにむしゃぼりつくひめゆりの乙女たち。

摩文仁司令壕に着いた八原は「到着した兵力は約3万、その実力は1コ中隊並み」と聞かされ、呆然とした。

真栄平の轟壕では海軍陸戦隊の大田司令官が「戦闘に巻き込む、非戦闘員と一緒に行動したくない!」と32軍に同行することを拒み、沖縄戦における県民の協力を伝えるべく報告文「県民は終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらずよく戦い抜いた。県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする」を書いていた。6月13にはこの壕にも敵が現れ、軍属の女子たちが応戦。

32軍は隷下部隊に「悠久の大義に生きるべし」と軍解散命令を下令した。これにもとづき波平の第1外科、伊原の第2外科は「思い通りに生きよ!」と現地解散。とまどうひめゆり隊員たち。参謀たちにはそれぞれ任務を与えて脱出させたが敵に遭遇し命を落とす。

6月23日牛島司令官、長参謀長の自害を確認して八原高級参謀は変装して洞窟を出て、捕虜となった。

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「軍人は死ねばすむ、だが俺たちはそうはいかない。この島は俺たちの郷土だ」と商業勤皇隊、二中勤皇隊、一中勤皇隊、工業勤皇隊が突撃出陣して消えていった。

「死ぬな!」と軍刀で脅され、逃げ惑う乙女たち。逃げ惑う島民に容赦なく銃撃を加える米軍。

迫りくる敵戦車に、亀甲墓の前で、神に願って踊り狂う老女。浜辺に漂う数限りない死体。恐ろしいほどに迫力のある映像だった!

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沖縄県民の死者は15万人。人口の1/3が亡くなったという。

よくぞここまで沢山のエピソーゾを描いたと感嘆します。なかでも島民の小さなエピソードを丁寧に拾い上げて積み上げ、見事に沖縄の悲劇が描かれています。「軍は何を守ろうとしたのか?」を問うた作品だと思います。

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