原案がノーベル文学賞作家のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが独ソ戦に参戦した女性たちに話を聞いてまとめた証言集「戦争は女の顔をしていない」。未読です。
ロシア作品には興味がある!さらにノーベル賞受賞作ということで、WOWOWで鑑賞しました。ロシア政府は本作の上映を禁止しているとのこと。となると余計に興味が湧いてきます。
監督:カンテミール・バラーゴフ、脚本:カンテミール・バラーゴフ アレクサンドル・チェレホフ、撮影:クセニア・セレダ、音楽:エフゲニー・ガルペリン。
出演者:ビクトリア・ミロシニチェンコ、バシリサ・ペレリギナ、アンドレイ・バイコフ、クセニヤ・クテポワ、イーゴリ・シローコフ、コンスタンチン・バラキレフ、ティモフェイ・グラスコフ、他。
物語は、
第2次世界大戦に女性兵士として従軍したイーヤは、終戦直後の1945年、荒廃したレニングラード (現サンクトペテルブルク)の街の軍病院で、PTSDを抱えながら看護師として働いていた。しかし、ある日、PTSDによる発作のせいで面倒をみていた子どもを死なせてしまう。そこに子どもの母親で戦友でもあるマーシャが戦地から帰還。彼女もまた、イーヤと同じように心に大きな傷を抱えていた。心身ともにボロボロになった2人の元女性兵士は、なんとか自分たちの生活を再建しようとし、そのための道のりの先に希望を見いだすが……。
カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で国際映画批評家連盟賞と監督賞をダブル受賞作品。
ベオグラードの厳冬の中で語られる物語。女性兵士と言いながら実態は何であったか?このことが語られず、彼女たちが蒙った説きようがない精神的トラウマを色彩や音をモチーフにして描き、戦争の見えざる残酷さを見せつけ、改めて女性の性の問題を問う作品だった。
あらすじ&感想:
ニングラードの軍病院。かって女性兵士であったイーヤ(ビクトリア・ミロシニチェンコはこの病因で看護師をしながら戦友マーシャ(バシリサ・ペレリギナ)から託された3歳のパーシュカ(ティモフェイ・グラスコフ)と暮らしていた。イーヤは長身で「のっぽ」と呼ばれていた。
冒頭、病院の洗濯場でイーヤがトラウマで苦しむシーンから物語が始まる。“コクコク”と喉を鳴らして苦しむイーヤを仲間は「また始まった!」と収まるのを待つ。パーシュカは可愛く、病院に連れていくと患者たちのお気に入りになっていた。病院長のイワノヴィッチ(アンドレイ・バイコフ)はそんなイーヤに病院で余った食料を与えて応援していた。
ある日の夜、イーヤが手仕事をしているときパーシュカが甘えて身体に触れるとイーヤはパーシュカを抱きしめ、トラウマでそのまま押し倒して圧死させてしまった。このトラウマの原因は何かが物語の進展に伴い明らかになってくる。
そこにベルリンでの戦を終えたマーシャが帰還。イーヤは詳しく語らないがパーシュカが亡くなったことを悟り、マーシャは血を吐いて「踊ろう!」とふたりで街に繰り出した。マーシャのトラウマは血を吐くことで示される。
イーヤは消極的で男嫌いな性格、グリーンの衣類を身につけている。一方のマーシャは情熱的で男好きな性格、衣類が赤になっている。繊細なふたりの感情のやりとりはこの色で表現される。
ダンスホールは休みだったが、そこで出会ったふたりの男に誘われ車の中で談笑。マーシャがそのうちのひとりサーシャ(イーゴリ・シローコフ)が気に入り、もうひとりの男とイーヤに「遊んできて!」と車から追い出した。イーヤは嫌々ながらマーシャの望みを受け入れた。
マーシャは車の中で童貞のサーシャとセックス。マーシャは戦場に戻っていた。イーヤは男の要求をはねのけ男の腕を圧し折って車に戻り、サーシャを殴り、マーシャをアパートに連れ戻った。
大浴場。イーヤはマーシャの腹部に大きな傷があることを発見。マーシャは「止めればよかった!でも、一人では生きていけない、子供が欲しい!」という。
マーシャは生きていくためにイーヤの居る病院を選んだ。院長のイワノヴィッチは快く受け入れた。
入院中の全身麻痺患者のステパン(コンスタンチン・バラキレフ)に通信が途絶えていた妻のターニャが会いにやってきた。ターニャは戦死報で亡くなったものと思っていたという。再起不能だと知った妻、妻の元に返っても無用ものという夫。どうすべきかをイワノヴィッチに問うた。イワノヴィッチの答えはステパンの自死だった。これをステパン夫婦が受け入れた。
イワノヴィッチはステパンの安楽死をイーヤに指示した。イーヤはこれまでと同じようにこれを受け入れた。
戦争が終わりやっと平和が訪れたと思っても決してそうではない、こんな悲劇が繰り返されていたのだった。
政府高官が患者慰問に訪れた。その付き人がサーシャだった。この再会にマーシャは血を吐いた!戦場ではこんなことが続いていたのだった。
イーヤが安楽死を行なう部屋にマーシャが血を吐いて休んでいてその一部始終を見ていた。
マーシャは「何としても子供が欲しい」とイワノヴィッチの子供を授かることをイーヤに説得。嫌がるイーヤにこれを受け入れさせ、不法な安楽死を訴える文章にサインさせた。
病院の新年パーティーでマーシャはこの文章をワノヴィッチに示した。イワノヴィッチは拒否すればイーヤも同罪になると受け入れた。
ベッドのイーヤ。マーシャを抱きながら、イワノヴィッチを受け入れた。
サーシャが食べ物を持ってアパートを訪ねてくる。イーヤは嫌がったが、マーシャが部屋にサーシャを招き入れるようになった。
イワノヴィッチが病院を辞めて、新しい医院長が着任した。
イーヤの妊娠の兆候が表れた。隣に住む洋服仕立て人がクリーンのドレスを作って、マーシャに「モデルになって欲しい」と訪ねてきた。マーシャはグリーンのドレスを羽織り舞った。イーヤはこれを見て嬉しくなり、パーシュカを押し倒して圧死させたように、マーシャに覆い被り激しくキスを求めた!マーシャがこれを拒否した。
イーヤとマーシャの関係はこのことで壊れ、マーシャはサーシャとの結婚を決意してイーヤの元を離れることにした。イーヤは「お腹の子はあなたに上げる」と送り出した。
イーヤは「心に空洞ができた」とイワノヴィッチを訪ね「抱いて!」と頼んだが、「一緒に来るか!」と言われ、諦めた。
サーシャの実家は大豪邸に住む富豪家だった。マーシャが玄関先で母親のリュボーフィ(クセニヤ・クテポワ)に挨拶すると「おかえりなさい!」と言われた。サージャに促され邸に入り、あらためて結婚を言い出すと、リュボーフィは「戦闘員と言いながらその実態は男の遊び道具であった。サージャはあなたを遊びものにしただけですぐ捨てる」と結婚を認めなかった。マーシャは「生活のため次から次へと男を変え、兵站部隊長がもっともよかった。2年間身体で稼いだ。貴方は自分で食べられる力はない!」と啖呵を切った。これを聞いたサーシャは邸を飛び出した。「哀愁」(1940)に同じようなシーンがあり、戦争による女性の悲劇を見る思いでした。
マーシャは電車での帰り、電車が人を撥ね停車。「のっぽの女だ!」の声を聴いて確認に走った。イーヤではなかった!マーシャの胸はイーヤへの思いでいっぱいになった。
マーシャがグリーンの上着でイーヤのアパートを訪ねると、イーヤは赤いセーターを着て“コクコク”と喉を鳴らし苦しんでいた。マーシャが「血が付いた!」と話すとイーヤが「洗えば!私は役に立たない!」と答えた。するとマーシャが「何も話さないで」とイーヤの口を塞いだ。ポスターの画がよく生きている!
イーヤが「嘘でしょう!私も他に誰もいらない。赤ちゃんを産む、きっと男の子よ!」と笑った。マーシャがイーヤを抱き激しくキスを求めた。
まとめ:
イーヤとマーシャは生まれてくる子とともにレスビアンとして生きることで戦場のトラウマを克服する道を選んだ。恐らく当時この生き方はなかった。新しい生き方だった。性の多様性を説いた作品だと思った。
戦争、トラウマの原因を描かないで、ふたりの精神状態を色彩と音をメタファーとして明かしていく演出。ラストシーンで、ふたりの衣装の色彩がこれまでとは逆になっている。ふたりがトラウマの中でこの衣装で交わす会話。ここでトラウマの全てが明かされるラストシーンはすばらしい演出でした。
主役のふたり、イーヤ役のヴィクトリア・ミロシニチェンコとマーシャ役のヴァシリサ・ペレリギナは共に本作が長編デビュー作とか。新人とは思えない熱演、素晴らしかった。特に女性の性を論じるために、たっぷりとヌードを見せる演出もよかった。
戦争を全く語らない戦争映画だからこそ、その悲惨さがよく伝わる作品でした。ウクライナ戦争、広島のG7サミットの中でこの映画を観て、一層その感を深くしました。
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