原作は新田次郎さんの同名小説、日本地図完成のため未開の地・劔岳を命懸けで目指した測量士たちの姿を描いたドラマ。未踏の山と信じられていた剱岳の測量を行う陸軍測地隊の困難な作業を、日本山岳会との登頂競争を絡ませたストーリー展開。測量隊は天候気象・装備、そしてなによりも難地形を克服して測量に成功(三等三角点を置くことはできなかったので“点の記”は存在しない)、山岳会より早く頂上に立つことはできたが、そこにはすでに先人が登頂していたことの証、錫杖が残されていた。
初登頂でなかったことに失望感をあらわにする上層部、報道記事に「何(初登頂)を成し遂げたかでなく、何のためになしたかが問題」と問う結末に感動します。
監督木村大作さんの初作品。名カメラマンで女優を美しく撮ることには定評がありますが、初めての監督作品、多くの名だたる男優(今は亡き夏八木勲さんが神々しい)が参画するなか、紅一点“葉津よ”役であおいさん参加、大役を任されました。出演シーンは僅かでしたが“男だけのドラマに情感を吹き込むこと”で立派にその任を果しています。
あおいさんは、「これから先、大作さんに気にしてもらえるような役者でいられたら」と言い、いつまでも語られる記念すべき作品になっていくと思います。
山好きには堪らない作品で、劔岳はじめとする立山連峰の稜線、雲海、空と雲、真っ赤な夕陽に富士の遠景。雷鳥、月の輪熊などの動物たち、そして激しい風雨、濃霧、大雪崩、落石と大自然の美しさ、厳しさを堪能させてくれます。
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物語は
明治39年秋、陸軍陸地測量部長大久保閣下のもとに柴崎技官(浅野忠ん)が出頭、「日露戦争はわが圧勝で終わった、ロシアは朝鮮半島への進出を画策していて我が国に脅威がある。国防の万全のために、この時期だからこそ、地形図を完成しておくことが必要」として、剱岳の測量を命じられる。「日本山岳会が狙っている、越されては恥だ。山岳会に負けるわけにはいかない」というもの。
妻葉津よが駅に出迎えるシーン、とてもうつくしい。「夕食はなにか」、「おさかな」。家では早速、地形の研究。柴崎の「葉津よ」に、風呂上がりのあおいさん「すぐお持ちします」と新妻ぶりが眩しいです。
測量の先輩吉田さん(役所さん)を訪ね、立山の剱山登山についての話を聞く。「案内人を慎重に選ぶ必要がある。立山曼荼羅知っているか、死の山と言われこれに登ることは立山信仰を否定することになる、芦倉の宇治長次郎(香川照之さん)さんに頼んだら」と勧められる。
早速富山に長次郎を訪ね、来年春から半年かけて本測量、今夏は下調べとしてあらためて案内人を依頼し、下見登山を開始する。村の長から長次郎の芦倉からは人夫はだせんが、協力はすると言われる。
剱岳への登山道3ルートを室堂乗越から見て決めることにする。西から長い尾根稜線を2日かけて辿る道、剱御前から前剱をとおる道、剱沢に降りて東面にとりつく道。紅葉のとても美しい山行きです。
「あなたに迷惑を掛ける」と礼を言うと、長次郎「自分は大山村に生まれて山で育った。誰かが登らんかったら道はでけん。誰かが登らねばならん山だ」と力強く柴崎を励ます。
裏剱を見るため、剱沢への移動で、ロープを繫いで雪渓を歩くうちに落石に会う。この三の沢を登るのは難しい。この先はなお難しい、真夏でも雪は解けない。「ここは一番好きな場所、剱はあの山の向こう。山に登ることは気持ちがいい。」と長次郎。
10月3日、初めて自然の美しさは厳しさの中にしかないことを知る。「あすは別山の行けるところまで行きましょう」と長次郎の案内で険しい尾根道を行く。剱の南壁、ここから先にいった者はいないと言い、長次郎が登れても機材を運ぶことは無理と判断。帰路、山岳会小島烏水(仲村トオルさん)らに会う。「剱岳に登るのは危険な遊び」と言うと「遊びに見えるか」と。貴方たちより先に登ると意気込む。
はげしい風雨が雪に変わり下山途中に、行者様も一緒に下山させないと一緒に下山。行者は「剱に登るなら雪を背負って登り、雪を背負って降りよ。修業したものたちに伝わっている」と話す。この偵察では、剱へのルートは決められなかった。行者の夏八木さんが神々しいです。
下山して、来年の登山を約束して別れ、測量本部に「登れない、やってみなければ分らない」と報告すると「何故登れん」と上層部。測量することで登頂ではないと反論すると、登ることが優先だと言う。吉田先輩は「測量士だ、軍の命令を聞くことはない。早く山に入って、観察することだ」と忠告してくれる。
帰宅し、葉津よに山の花をプレゼントする。きれいな花だと言い「出発して日で帰るんですか」と問うてくる。明るい夫婦の語らい。
明治40年春、メンバーが決まり、出発のための準備が始まる。葉津よはしっかとりと衣類を準備ながら、「いざということは何ですか、戦争に行くみたいで、本当は好きなくせに」と言いながらお守りをそっと忍ばせる。
剱への登山に立山営林所は反対し問題を起こすなと言う。取材記者がやって来ていろいろ聞く。27か所に櫓を立てるため地元で人夫を雇い準備する。長次郎の息子が剱に登ることに反対するが「登りたい人を支援するだけだ。こいつはこいつで生きていかねばならない。許して欲しい」と詫びる。
雪の山に入り、風雨を天幕でやり過ごし、選点観測を開始する。とても美しい山岳映像です。計測義で古田の作った薬師岳の2等三角点標を覗く。
4月24日第1日目、天狗山より与点立山、右第1選点候補鷲岳を観測するなかで、生田(松田龍平さん)は「先に剱やりませんか。悠長なことやっていられないと」とこぼす。柴崎は「選点作業をやって準備して剱に登るという順序がある」と厳しく注意する。
2日目剱岳を天狗山より選点候補にする。雪の中を行く隊の姿は美しい。剱の入り口をどうやって探すか、必ずあるはずだ。室堂乗越を超え天幕場を番幕島平に移す。途中で大雪崩に会う。
雪から這い出し、必死にお互いを探し求め、無事を確かめる。こちらからの測量は無理なのでいったん室堂に戻ることにする。次々と試練を与えられる。もくもくと作業を続けるしかない。浄土山の選点作業を終え、隊主力には立山温泉で次の造標作業等の準備することを指示し、柴崎、生田、長次郎の3人で鷲岳に偵察に出かける。
天候が悪化してきて長次郎が心配しだす。踏み跡が見えなくなり、長次郎が二人を残し進路確認のため離れる。生田が「あいつ道見失ってる」と疑うが、「山を一番知ってるのは誰だ、」と柴崎が注意する。長次郎はライチョウを見て道を発見。激しい風雨に苦しめられる三人は、主力の救援により救助される。
地形偵察図が完成し、造俵作業に取り掛かる。山岳会は剱登頂のため室堂に来ているらしい。柴崎は長次郎にこれまでの協力に感謝し、疑ったことを詫びる。こんな山奥で地図をつくることの意味はなにかを反芻しながら、「剱の登頂は諦めていない、やるつもりだ」と吉田さんに手紙で決意を示す。
奥大日岳に三等三角点の櫓が初めて立つ。次は剱御前に。山岳会も登頂が難航するなかで測量隊を見付け「あれではしばらく登らんだろう」と、手旗で「ココカラハキケン ホンジツハ ゲザンスル」と伝える。測量隊は「ご丁寧に教えてくれて」と返信する。
柴崎は「もう一度南壁にいってみよう。“何者にもとらわれず心のままに”という行者の言葉を思い出し、やって見なければ」と前剱からの登頂を目指す。長次郎が天気が悪くなっていると中止を促すが、「やらしてください」と生田が岩場に挑むが、足を踏み外し落下、雪面を滑り落ちるが人夫に助けられ、背負われて立山温泉に下山。これで登頂を断念する。
長次郎の息子がやって来て、生田に手紙を渡す。子供が産まれた。女の子です。生田は柔らかい気持ちになっていて、子供のためにも頑張りたいと言う。
7月2日、奥大日岳の計測。山岳会に出会い、ビスケットのプレゼントを受ける。鳥水が「私たちは登ることが仕事だが貴方たちは登ってからが仕事だ」と言い「貴方は何のために山に登るのか」と問う。柴崎は「地図を作るということは、人はだれもが自分はどこに位置しているかを知りたがる、誰にも必要なことだ。人は何をないしたではなく、何のためになしたか」という古田さんの言葉を思い出し、自分に言い聞かせる。
長次郎の「せがれがどんなことがあっても登れと言うので(考えてみると)、あの雪渓のことですが、“雪に頼れということ”ではないでしょうか。三の沢をもう一度見てきました。危険はつきものだが、無理をしてでも行きましょう」という進言に基づき、隊員は雪渓の割れ目に落ちると不安がるがいまがチャンスとこれに挑む。
鳥水はこの行動を「三の沢から登るんだろう。自然に対する感が必要なんだろう」と評価する。
隊員7名が雪渓を登り詰め、この映像は凄い!! 最後の絶壁でロープで身体を繋ぎ登る。「ここからは皆さんが・」と長次郎が先を譲ろうとするが、「あなたの案内がなければ登れない、あなたが居なければここに来れなかった。あなたは仲間です、最後まで案内をお願いします」と長次郎を先頭に進み、遂に登頂へ!!
]40年7月13日、ここに四等三角点を作る。しかしここで錫杖を見付ける。報告を受けた本部は「陸軍にとってはこれでは意味がない。修験者ごときに負けては意味がない。このたびのこと、登山はなかったことにする。何の役にも立たん」と剱岳登頂の意義に否定的態度をとる。
「初登頂ではなく、4等三角点では記録に残らない」という新聞を見る葉津よは「世間はどう思おうと私はあなたの味方です」と「あの人は よえ、やまがたそだち よえ・・・・」と口ずさみ、夫を庇う。あおいさんの鼻歌が切なく夫への愛情がしっかり伝わります。
8月3日別山に三等三角点を設置、四等三角点の剱を覘視して測量を開始しようとするとそこに山岳会のメンバーの姿を見る。彼等から「おめでとうございます。この歴史的登頂は日本登山史に末代まで語りつがれるでしょう」と手旗信号で送ってくる。
さらに「剱岳を開山したのはあなた方です。ただ地図を作ることに自らの仕事を成し遂げられたことを心から尊敬します」。
測量隊から折り返し「剱山登頂おめでとうございます。あなた方はわたしたちの掛け替えのない仲間です」と返信する。
「柴崎芳太郎はじめ多くの仲間によって日本地図が作られたと同時に家族たちの記憶でもある」として物語は閉じられる。
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