訪ねてきた勝(北大路欣也)から「家臣たちは田畑を開き、商売を始めるなど懸命に新しい暮らしを築いて暮らし向きを築いており、家達は武芸、学問に励んでいる」と聞き安堵し、「元号が明治となり、江戸が東京となり、帝が江戸城に入られた。われらが大奥に住まいしたころがどんどん遠くなるのう」と感慨を漏らすのでした。そして政治の中心は薩摩だと聞かされます。
久光は不満気に「よかろう。思う通りにやってみるがよい」と返し、帯刀は進んで小松家の土地を返上すると申し出ました。
「西郷が薩摩に帰っている」と勝から聞き、天璋院は驚きます。「旧弊を改め、改革を断行するために、西郷が必要であろうに」と問うと「いろいろ思うところがあるようです」と言明を避ける。
帯刀の様子を聞くと、「大坂で療養中のようです。小松殿がいないことで、政府の混乱はさらに深まっているようです」。
このころ、帯刀は大坂医学校に入院していた。病床にあっても、改革のことが頭から離れなかった。
打てば響くように話が弾みます。忠敬が、
「そなたのようなそこつ者が江戸城大奥を統べていたとは、信じられぬ」
「私もです!」
天璋院は、母・お幸さんに、
「おのれの役割を果たすこと、一方聞いて沙汰しないこと、そして考えても答えが出なければ、感じるままにせよということ。それを守ってきたからこそ、折々にとき道が開けたのだと思います」
「そんなあなたの母であることを、私は誇りに思います」
お幸さんはこの年の11月、薩摩で安らかに息を引き取ったのでした。
勝が「お母上は薩摩に帰って欲しかったのでは」と問いますが「それを言わぬが薩摩おごじょじゃ」と微笑むのでした。
大久保、木戸、岩倉が廃藩置県を行うことにしますが、これには力のあるものが必要と西郷を呼び戻すことします。
病床にある帯刀は、西郷と大久保に「力を合わさなければ新政府はうまくいかない」と手紙を書いていて、激しく咳き込み吐血する。このころ天璋院は、必死に祈るのでした。
帯刀はお近さん(ともさかりえ)とお琴(原田夏希)を呼び、お近さんに琴との間にできた子・安千代を小松家の当主にするよう頼みます。お近さんはこれを快く受け入れ、帯刀はお近さんに感謝し「すばらしい日々だった。あとを頼む!」と言葉を残し逝ってしまいました。享年36歳でした
大久保は「これから薩摩に、西郷を迎えに行きます。小松様に意思を継ぐ覚悟です」と言い、去っていきました。
天璋院は、ありし日を忍び、帯刀とおそろいのお守りを取り出し、声をあげて泣くのでした!
12月。大久保は帯刀の手紙を持って大久保を訪ねます、手紙を見て、ふたりは無言で見つめ合い、お互いの心を理解しました。
明治4(1871)年、中央政界に復帰した西郷は、大久保と手を組み、廃藩置県を実現へと導きました。
天璋院は家達に、武士としての修練と同時に、英語の習得など、新しい時代にふさわしい教育を施すのでした。
明治6(1873)年10月。天璋院のところに西郷が、薩摩に帰ると、挨拶にやってきます。
西郷は、
「おいは古か男でございもす。古かことがやすやすと捨てられんとでごわす。大久保とも意見が食い違うようになりもした」
と床に手をつき、
「天璋院さんのご恩は生涯忘れもはん。今でも、おいの主君は斉彬様おひとりでごわす」
「そのように思うてくれて、父上も喜んでおりましょう」
これが、天璋院と西郷との永久の別れとなりました。
(明治10(1877)年。西郷は、新政府に不満を抱く士族たちとともに西南戦争を起こして戦死)
明治7(1874)年、静観院(堀北真希)は再び東京で暮らすようになっていました。
天璋院と静寛院は親しく行き来し、あるとき勝にてれられて芝居見物し、鰻を食べることになりました。
このとき、静観院と天璋院が互いにご飯をよそおうという微笑ましい出来事がありました。
しかし、明治10年、静観院は脚気の治療に箱根に出かけ急逝。32歳でした。
このころ、新政府は海外へと目を向けかけておりました。大久保は清との正装を回避するため清国に出向いています。大久保は、独断にすぎると批判する者もいるほどに、ひとりで日本を背負っているかのように活躍をしていると言います。強い国をつくるために・・。
明治9(1876)年、家達(私市夢太)と近衛泰子(長谷川真優)の婚約祝いに、滝山(稲森いずみ)や重野(中嶋朋子)など、大奥でともに過ごした女性たちが駆けつけた。皆それぞれの道を歩み、幸せに暮らしている。
天璋院は「今日は最良の日じゃ・・」と幸せそうに笑みを浮かべるのでした。
明治11(1878)年5月、大久保は紀尾井町の路上で不慮の死を遂げた。政策に不満を持つ者たちによる襲撃だった。
「家定様、私はもうこれ以上、大切な人たちを見送りたくはありません」と、家定の位牌に手を合わせるのでした。
5年後、家達に子を授かった。徳川の家族が続いてゆく。
「それが何よりうれしい。」人の幸せとは、穏やかな日々の中にこそあるのだと思っている」と赤子の肌着を縫いながら側に控える勝に話しかけるのでした。しゃべり方がすっかりひいおばあちゃんになっています!
「天璋院様と話していると、生きることに勇気がわきまする。この世には、むなしいこと、つまらぬことなどひとつとしてないのだと」
「そうじゃ。誰もが、天命、果たすべき何かをもってこの世に生まれてくるのだからな」
天璋院はおのれの信じた一本の道を歩み続け、明治16(1883)年11月20日、49歳の天命を全うしました。
「女の道は一本道。おのれの役割を果たすこと、一方聞いて沙汰しないこと、そして考えても答えが出なければ、感じるままにせよ」と筋の通った生き方をする天璋院の物語は、人が生きるための指針ともなるもので、とてもすばらしいドラマでした。関係者の方々に御礼申し上げます。最後まで読んで頂いた方々、ありがとうございました。
***「篤姫」終わり***
正鵠 良し 篤姫