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第17回「いつもふたりで」

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1915年、戦争でベルリンオリンピックの開催中止が決定し、選手のピークを迎えていた四三(中村勘九郎)は激しく落ち込む。ふさぎ込む姿を野口源三郎永山絢斗)らが心配するなか、熊本からやって来た妻・スヤ(綾瀬はるか)が四三を受け止める。夫婦として共に痛みを分かち合い、スヤの愛を力に再び走りだす。四三の再起に刺激を受けた治五郎(役所広司)は明治神宮にスタジアムを作る目標を立てる。やがて彼らは、東京―京都間の東海道五十三次を全国の健脚たちと共に走る構想を思いつく。これが「駅伝」誕生の瞬間だった。
 
感想:
四三は持てるものの全部をベルリンオリンピックにかけ、それが叶わなわず絶望のなかにいたが、そこを救ったのが、妻・スヤの優しさだった。海軍兵学校の受験に落ちて悩んでいた四三を救ったのもスヤ。人はひとりでは生きていけない。
人は、挫折の中で、本当にやりたいものが見つかるのかもしれませんね。四三の自分の後を誰が継ぐのかという発想、これは頂点を極めた人にしかできない。ここで気づいたのが、走ることを楽しみ、つなげることで友情を育む「駅伝」というレース。走ることが人生であった四三の体験からしか生まれなかった発想かもしれませんね。
 
オリンピック馬鹿の治五郎は、東京でオリンピックができるスタジアムを作るという夢をもつ。
 
ラソンに興味をもつシマ(杉咲花)に、「マラソンは野蛮!残酷!不要!」というトクヨ(寺島しのぶ)の見方。当時のウーマンリブのはしりとはいえ、ピンとこない! 日女体の学生さん、びっくりでしょうね。()
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四三は治五郎から、高師の校長室で「オリンピックは無期限延期になった」と知らされ、言葉をなくしそれ以降、下宿に閉じこもってしまった。心配した野口(永山絢と)と橋本(高橋周平)がやってきたが、いくら呼んでも返事しなかった。
スヤは幾江から「マラソンとスヤのどちらを取るか、今なら勝てる、連れて帰れ」と言われ東京に向かっていた。
 
播磨屋では辛作(三宅弘城)、清さん(峯田和伸)、シマ(杉咲花)が心配していると、福田(嶺豪一)と徳三宝阿見201)がやってきて、徳三宝が襖に体当たりし部屋に入ると、四三はぼんやりと上を向いて「オリンピック無くなったのに、なんで走るのか」と嘯いている。「辛抱しろ!お前がへこたれたらみんながへこたれる」と清さんが宥めているところに、スヤがやってきて、いきなり「水をぶっかけると大人しゅうなりますけん」と水を掛けた。
 
スヤが「熊本に帰りませんか。うちはオリンピックはなくてよい。メダルを取って喜ぶあなたの顔が見たいから応援しています」と話しかけると、我に返った四三が「ダンケシェーン。俺は寂しい。きつい練習をした夜はスヤの夢を見た。スヤさんが自転車で追いかける夢を見た。起きて走って、寝て走って、くたびれて、それもあと1年と思って走った。金メダルを取って終わりにしたかった。何で戦争するのか」と悔しがる。「終わったと思えば帰れましょう」。
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スヤが「オリンピックは終わりました。帰りましょう」いうと「俺は何位か」と聞く。「金メダルばい」と顔をつねるが四三が喜びの表情をしない。スヤはもっともっとと顔をつねったが反応がない。スヤが「始まってもないのに終わるわけがない」というと、四三はスヤの膝に顔を沈めて泣いた。このシーンには涙でした!
 
スヤは辛作に自転車を借り、四三は足袋を履いて表に出た。スヤの伴奏に四三が走り続けた。
 
この日、スヤは四三の部屋に泊まった。四三はスヤに「この前は済まなかった。時々会いに来てくれ、帰れとは言わん。これからは先のことば考えんといかん」と話しかけた。スヤが「これから子供が産まれたら・・」と言いかけると、スヤのことも考えず四三は「自分が走れなくなったら誰があとを継ぐのか?全国にいる韋駄天を誰が指導するのか」と心配ごとを話す。
スヤは、自分たちの先の話でなくびっくりしたが「金栗四三50人おったらよかばってんね」とあきれて寝た。()
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翌日四三は高師に治五郎を訪ね、指導者になるべく教職に就くことを伝えた。昨夜スヤの言葉で思いついた「私が50人おったら、50倍の距離、ひとり10kmで500km、東京から大阪までです。一人では無理だが50人おったら走れる」という話をすると「なるほど、喜びも50人分だ。マラソン競技はつらくきついが団体競技だとやりやすい。助け合い、励まし合う仲間がいると大坂から東京まで走れる、すばらしい」と治五郎がこの案を褒めた。こうして四三はオリンピックに代わる目標を見つけた。
 
大正51916)年、四三は神奈川師範の教員となり、地理を教えるかたわら辛作と二人三脚で練習法や足袋の改良に励み、東京と大阪を繋ぐ夢に向かって走り始めた。
 
このころ孝蔵が、医者に止められたと水泳訓練を観てる政治を、「医者の言うこと聞くやつが愚の骨頂だ」と海に放り込んでいた。() このシーンの必要性がわからない。
 
シマは東京女高師の生徒となりミルクホールの仕事も続けていた。四三とともにミルクホールを訪ねた治五郎は、女子体育の振興は国を挙げて取り組むべき課題だとシマを励ました。
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四三と治五郎が、東京―大阪間のレースの話をしていると、側の客が京都ではだめかと聞いてくる。聞いたのは大村という読売新聞の記者だった。隣には同じく記者の土岐善麿がいた。
読売新聞では、京都から東京への遷都50周年の協賛行事として画期的な運動会を考えているという。
大村らはこれから浅草で運動部のご意見番に会うという。治五郎と四三も同行することにした。
 
待ち合わせ場所は恣雲閣。そこには吉岡信敬満島真之介)、天狗倶楽部の吉岡がいた。土岐の提案する東海道五十三次を辿るレースに吉岡も賛同した。
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治五郎が「わしも見つけた。東京でオリンピックをやるためのスタジアムを作る。戦争でオリンピックが出来ないなら東京にスタジアムがあればできる。スポーツは国力の証だ。スタジアムはシンボルだ。招かれるのを待つなおくだらん」と言い出す。「そこは、明治天皇を祭る明治神宮を建設中なのでだめだろう」と土岐がいうが、治五郎の耳には入らなかった。早速、東京五十三次を巡るレースを体協に謀ることにする。
 
吉岡、土岐、大村を招いた体協で、四三は東海道五十三次レースを説明した。理事の岸(岩松了)が「走って何になるんだ」と反対するが「読売新聞の主催ならば」ということでまとまり、副理事長の武田(永島敏行)の提案で「駅伝」とレース名が決まった。
 
シマの勤めるミルクホール
吉岡が「最終ランナーは金栗君だなと話していると、シマが「女子はダメですか」と聞いてくる。治五郎は「女の体には向いてない。すこやかな子供を産むんだな」と答えた。四三は「トクヨ(寺嶋しのぶ)に相談しては」と勧めた。
 
学校でシマがトクヨに話すと「私に言わせればマラソンなど野蛮!残酷!不要!」と一蹴された。
これを聞いた四三は、マラソンの魅力が世間に伝わっていないことに憤慨した。
洗濯物を干すスヤのタスキ姿で、リレーのバトンに代わりタスキを使用することを思いついた。
さらに、辛作を説得して足袋を紐で結ぶタイプに改善した。
 
関東軍13区の選手がアキレス腱を切って棄権し、14区の選手が二区分走るというアクシデントはあったが、選手たちは懸命にたすきを繋いでいった。浜名湖をどうやって走ったかって、船で渡った。政治が見ていたという。()
 
関東軍の最終走者は四三だ。レース開始から44時間後の29日午前1025分、四三は川崎を出発した。
四三がゴールの日本橋に着くころには、市電の線路を塞ぐほどの大観衆が応援に集まっていた。多くの人が四三と走り「駅伝!」の駆け声が飛んだ。スヤも観衆のなかから「かなくり・・」と応援した。日本初の駅伝は大成功で幕を閉じた。
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その後、熊本に戻ったスヤは妊娠していることが分かり、幾江(大竹しのぶ)が大喜びで「四三が帰って来る。スヤを医者に見せた。ご懐妊ばい!これで池部家は安泰ばい!」と金栗家に駆け込んできた。
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記事 20190506
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