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第20回「恋の片道切符」

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治五郎(役所広司)の手紙によってマラソンがオリンピックに復活し、大正9年、四三(中村勘九郎)は十種競技に挑む野口(永山絢斗)ら15人の選手たちとアントワープへ旅立つ。現地には、欧州で銀行家として働く三島弥彦生田斗真)が激励に駆けつけ、四三と弥彦はたった二人だったストックホルム大会からの日本の成長を実感する。四三は後輩ランナーたちと激走を繰り広げる。しかし、16位とまたもや惨敗。帰国後、四三不在のなかで野口が各選手の奮闘を伝えるも記者たちからの激しい批判を受ける。夫を迎えにきたスヤ(綾瀬はりか)は、夫の長きにわたる闘いは金メダルだと反論する。そのころ、敗北した四三は因縁のドイツの地をさまよっていた。
感想:
これまでドラマを観てきてよかったと思えた回。四三と弥彦が日本として初めて参加したストックホルム・オリンピックを懐かしみ、アントワープオリンピックが、これまでの8年のなかで日本がいかに努力したかが分かり、感動しました。
そして、「恋の片道切符」。オリンピックで必ず金メダルを妻に届けるという四三の愛(夢)に、重みの体でありながらこの夢に掛け、ひとり熊本に戻り出産し、応援し続けたスヤの愛。この夢は実らなかったが、スヤのために走った四三の努力は全てスヤには届いていた。泣けますね!
 
治五郎がもう古い人間だからと体協会長職を去り、あれほどに頑固に肋木体操を主張した永井(杉本哲太)もスポーツ界を去ると言う。水泳はクロール泳法の時代に、そして四三はドイツで女性の力に気付く。ここからスポーツの新しい時代に入っていくのでしょうか、楽しみです!!
 
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箱根駅伝の成功を受けて、治五郎はIOC会長・クーベルタン(ニコラ・ルンブレラス)に直訴状を提出し、これでマラソンアントワープオリンピックの正式種目に決まった。
体協本部では選手選抜会議が開かれた。今回は岸の手腕で選手15人、監督1人分の渡航費が支払われることになった。
ラソンは四三、茂木(久保勝史)ら4人。アメリカ在住のテニスの有力選手2名が選ばれた。また野口(永山絢斗)が陸上の「十種競技」出場が認められ、水泳は浜松の内田正練(葵揚)らが選ばれた。永山さんはしっかり練習していますね。これだけの出番ではお気の毒!
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東京を離れた孝蔵は、浜松の勝鬨亭で高座に上がっていた。ある日、“ちいちゃん”が訪ねてきて「ま~ちゃん覚えている?」という。孝蔵(森山未来)の落語が面白くないといったあのバカやろう“政治”(原勇弥)。東大に入るという。原さんが阿部サダさんに似ていてびっくり!
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政治はこのころ「浜名湾遊泳協会」を率いていて、オリンピック代表に選ばれた内田も協会のメンバー。
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内田がクロールという種目にでるというのでメンバーでその泳ぎを見て、こんな泳ぎがあるのかとびっくりした。
 
1920年春のある日、四三が夜も明けきらないうちに走っていると、着物をからげて走るシマ(杉咲花)と出くわした。そのあとミルクホールで四三が「オリンピックの練習だ」と言うと、「オリンピックに女子選手がいない。男が走ると喝采を浴びるが、女は一目を気にして走るなんておかしい」と。これに四三は答えられなかった。
 
大正95月、アントワープに向かう日本選手団の壮行式が横浜港で行われた。選手団の主将は野口、監督は東大陸上部出身の弁護士・辰野保だった。実は治五郎は永井(杉本哲太)に監督を勧めたが「私では選手を指導できない。私の体育は古すぎる。トクヨさんの時代、私は体育界から去る」と断り、密かに可児(古舘寛治)が期待していたがそうはならなかった。何故こうなったの?
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13人の選手と監督が横浜からサンフランシスコへ行き、アメリカ大陸を横断。ニューヨークで団長の治五郎、テニスの2選手と合流した。そこからはオリンピック号という船で、ロンドンを経由してアントワープを目指した。この間、四三はスヤに「独協中学をやめて頑張っている。今回が13名の参加で孤独感がない」と自信に溢れた手紙を出していた。スヤには美川(勝地諒)からの転送で知らされた。()
 
この頃、東京女高師では、トクヨ(寺島しのぶ)がシマを呼び「私には付き合っている男性がいる。今、海の彼方にいる。今きている見合いの男にあなたが行っていただきたい」という。() 
 
英国の入国手続きで、四三のパスポートの名前が「金栗」でなく「池部」となっていることに皆が驚く。四三がスヤのことを話すと、野口も結婚していて妻子を松本に残しているという。四三は「妻は何にも言わないでよく尽くしてくれる。金メダルを取った後、話す予定だった」と言い訳をしたところ、治五郎が「発表してしまったではないか。金メダルを取らないわけにはいかんな」と。
 
83日、一行はベルギーのアントワプールに上陸。14日に開会式を迎えた。入場行進を前に日本選手団がロッカールームに集まっていると、そこに弥彦(生田斗真)がやってきて「日本のスポーツ界も発展したな!」と驚く。弥彦は前年から、横浜正金銀行のロンドン支店に勤務していた。
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四三と弥彦は、たったふたりで出場したストックホルムオリンピックを振り返り、感慨にふけった。
開会式後、四三はスヤに「いよいよ平和の祭典、開幕致し候。帰ったら報告会のあるけん、金メダルとともにスヤを皆に紹介ばしよう」と手紙を送った。
 
それから3か月後、東京高師の講堂でオリンピック報告会が開かれた。会場の後方にはスヤと実次(中村獅童)がいた。ふたりは選手団の中に四三を探したが、どこにもいなかった。
 
競技を見せず、報告会で結果のみ報告という形で、アントワープオリンピックは終わりでした。
 
壇上では主将の野口が、団長の治五郎が欧州視察後に帰国するため自分が報告すると始めた。
テニスではシングル、ダブルスともに銀メダルを獲得、野口の十種競技12人中最下位と報告が続く。野口の成績に怒号が飛ぶ。政治が会場に入ってきた。
次いで、水泳の内田が「予選で敗退し世界はいまやクロール一色であり日本も早急にクロールを習得する必要がある。指導者が必要だ」と訴えた。
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最後に野口はマラソンの報告を始めた。実は永井が自費で四三を励ましにやってきていた。「四三は茂木たちを励ましながらアウトワープの町を走り、折り返し地点では25位だったが、その後5位まで順位を上げ、35KM地点までは順調だったが、その後ペースダウンし、16位でゴール。記録は2時間4845秒だった」。「原因はやはり8年間の無理がたったのでは・・」と結んだ。
四三は回想で「ベルリン中止からはやけくそだった。走っているときだけが不安が解消された。あの時なら楽に勝てたのに!」。
 
トクヨから「今回の惨敗、会長の責任を問う声があります。マラソンを正式に加えてもらってこのぶざまな負け。国際舞台で真っ赤な恥をかいたということ」と発言。
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これにスヤが「せっからしか!!金栗選手は負けとらんったい!42KMを日本人で初めて完走ばしたでしょうが!16位ばってん、うちにとっては大勝利!金メダルたい!」と叫んだ。「私たちは何をなすべきなのか。50年後、100年後」というトクヨに「二階堂君、ここで論じることではない」と永井を諭した。
報告会のあと、永井から「会長職を資する。私も古い人間だから。50年後、100年後の日本の選手たちが今と同じようにスポーツを楽しんでいることを望む」という治五郎の言葉が伝えられた。
 
傷心の四三は、オリンピックのあとヨーロッパをさまよい、ベルリンにたどりついた。選手として全盛期だった4年前なら金メダルが取れた夢の檜舞台だった。
スタジアム近くの広場でこれからの身の振り方を考えていると、足元に槍投げの槍が飛んできて、ドイツ女性が飛んできて謝った。そして、また槍を投げの練習を始めた。「そぎゃんとこから・・」と女性の力でこれほどの距離を投げれるのかと、四三は驚いた。
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記事 20190527
<いだてん>第20回「恋の片道切符」視聴率8.6%で1桁続く 四三、2度目のオリンピックも惨敗!?