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“いだてん“第33回「仁義なき戦い」日本の裏切り!

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1940年のオリンピック招致をめぐり互いに激しく争う東京とローマ。治五郎(役所広司)は田畑(阿部サダオ)らをイタリアの独裁者ムッソリーニとの直談判に派遣する。しかし、ムッソリーニとの会見直前、IOC委員・副島道直(塚本晋也)が急病で倒れてしまう。招致の命運がかかっていたIOCオスロ総会は、他国の政府首脳に働きかけようとした日本の動きを巡って大紛糾。絶対絶命の状況下で、治五郎は逆転の秘策を思いついく。
感想:
「誰が仁義を破ったか?」オリンピック精神に関わる大切な回でした!
第12回オリンピック開催地として最有望なローマをムッソリーニに直談判して譲ってもらうという試み。嘉納治五郎が持病で赴けず、代わって副島(加藤雅也)が自らの病躯を押してムソリーニと面会。ムッソリーニは副島のなんとしての東京開催という覚悟に感動し、東京に譲ると確約をした。このころの日本人のスケールの大きさ、物おじしない態度に感心します。日本人としての気品がある副島:塚本さんの演技に痺れました。

開催地を決定するIOCオスロ総会。当然イタリアは辞退すると杉村ひとりが参加。ところが、イタリア代表・ボナコッサは「政府はスポーツに干渉できない」とこれを拒否。杉村はかっての国際連盟事務局長だったコネで再度ムッソリーニを動かそうとしたが拒否された。が、イタリア代表3票が東京に投じられることになった。しかし、会長ラトウールがこれに応ぜず、開催地決定は翌年に延期された。杉村:加藤さんの、今の日本人にはめずらしい、ちょっと強引なところもありますが自信に溢れた元外交官という演技がいい!

ラトウールは「なぜ嘉納は来ない!」と悔やんだという。ラトウールの1票は日本に決めていた。嘉納治五郎のオリンピック思想が国際的に受け入れられていた。嘉納が参加するだけで、オリンピックが政治利用されることを防げたということ。
オリンピックはなんのためにやるのか?すこし遠回りしたようですが、政治を持ち込んではならないと気づかされました。

嘉納はラトウールを東京に招いて“おもてなし”で決着しようとしているがはたして・・。

四三とスヤの関係が逆転してしまって、四三には熊本にいることは地獄のようです。(笑)。嘉納の誘いを受け家出、四三には小松(仲野太賀)でオリンピックのマラソンを制したい夢がある。ベルリンに間に合うのか? 五りん(神木隆之介)がすでに明かしているように小松は満州に出征しているから、悲しい運命が待っているかも?

2・26事件の勃発。この状況下も治五郎らは東京開催を主張できるのか?

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1940年のオリンピック開催地を東京にするため、IOCオスロ総会が始まる前にムッソリーニを説得しローマに降りてもらうという奇策に出た。
ところが治五郎は持病の腰痛が再発して歩くこともできず、担架で病院に運ばれた。そのためムッソリーニに会いに行く役目は副島に託された。イタリア大使の杉村はムッソリーニとの面談を取り付けた。政治は写真集「日本」をムッソリーニに贈呈するという大役を治五郎から任されて副島に同行した。

昭和10(1935)年1月14日、副島と政治は、ローマで杉村と合流した。杉村によると「ムッソリーニは気分屋で『陽気な独裁者』と呼ばれ、4年ぐらいは待ってくれる」という。

副島、杉村、政治はそろってイタリア首相官邸を訪れた。ムッソリーニが現れたとたんに副島が倒れてしまった。
副島は病院に運ばれ、政治が付き添った。「余命1か月」と診断された。(田畑の聞き違い?)(笑)
首相官邸に残った杉村はムッソリーニに「副島は長旅の疲れで朝から発熱していたが耐え切れず病院に」と事情を説明したが、ムッソリーニが「サマライ!」と激怒して席を立った。

入院中の治五郎は電報でこの状況を知り、自分が行くと言い張ったが、担当意の東龍太郎から「脊椎損傷」と診断され止められた。東龍太郎はスポーツ医学の権威で、のちに東京都知事として1964年東京オリンピックに関わりオリンピック知事”と呼ばれる

副島はその後、ローマの病院で生死の境をさまよった。2週間経ってようやく医師から外出許可をとり、杉村、政治とともにムッソリーニを訪ねた。

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副島と杉村はムッソリーニを前に、オリンピック東京招致の意義を力説した。副島が「オリンピックは世界の祭典。しかしヨーロッパばかりだ。アジア初のオリンピックを東京に招致するまで祖国の地を踏まない覚悟だ。1944年にローマで開くよう協力する」と申し出ると、ムッソリーニは「その通りだ。あなたが病を押して会いに来てくれたことが心を動かした。予定どおり会っていたら拒否した」と15分で会談は終了した。

この知らせに日本中が大騒ぎになった。新聞は「第12回大会、イタリア首相の譲歩」の見出しが躍り、治五郎はIOCオスロ総会での勝利を確信した。
資五郎は「東京でオリンピックを行うならば、四三が適任」と四三を東京に呼び寄せることを考えていた。

熊本。四三は、小松とともに熊本の山道を走っていて「カフェ・ニューミカワ」なる店の看板を見つけた。行ってみると、店主は美川(勝地了)だった。美川は関東大地震後、全国を渡り歩いた末、この店を開いたという。

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四三が小松を弟子だと紹介すると、「金栗先生の前でおこがましいが、オリンピック?」と聞く。小松は「日本人がまだマラソンで獲得してないメダルを東京オリンピックで取りたい」と返事した。「あなたの夢は?」と聞くと美川が「大陸かな・・」と返事する。

2月、1940年のオリンピック開催地を決めるIOCオスロ総会が開かれた。副島は完治せず、杉村がひとりで十分と出掛けた。しかし、オスロにやってきた杉村、ムッソリーニの約束があるとはいえ、東洋人はひとりで心細くなった。
総会の会場にはイタリア代表のボナコッサ伯爵の姿があった。ボナコッサは10年来、私財を投じてオリンピック招致に励む「イタリアの嘉納治五郎」ともいうべき人物だ。

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開会するとIOC会長のラトウールが1940年の開催候補地がローマ、東京、ヘルシンキだと告げ、ローマが入っている。ボナコッサが「設備は整っておりローマは自信を持っている」と発言。これに杉村は驚き、言う積りはなかったが、「すでにムッソリーニ首相から日本に事態の申し出があった」とスピーチした。しかし、ボナコッサは「聞いている。しかし、イタリヤでは政府といえどもスポーツに干渉できない」と主張した。投票まであと3日。

東京でこれを知った副島は政治にオスロに行けと指示した。政治はまずイタリアに行きムッソリーニに会いに行ったが会えなかった。改めてオスロに行くことにした。

杉村は国際連合時代に部下だったイタリアのロドロ公使を通じて再度ムッソリーニに事態を嘆願しようとしたが、ロドロは「首相でもその権利はない」と断った。


ところが決戦の日。ボナコッサは「イタリアのIOC委員が持つ3票を不本意ながら東京に投じる」と宣言した。
しかし、タトウールが「IOCは政治的圧迫で議決があってはならない。杉村、副島はこれに抵触した」とこれを止めた。開催地の決定は翌年に延長するとラトウールは決定し、杉村が「政治的取引はない」と反論したが「ここは国際連合でないIOCだ!」と耳を貸さない。杉村が「東京は関東大震災で全部失ったが、その復興を見せたい」と食い下がると、ラトウールは「なぜ嘉納は来なかった。彼が来ていればこうはならなかった」と言う。杉村は絶句した。

やっとオスロに着いた政治に、杉村は「思い知った。日本への一票はすなわち嘉納治五郎への一票だった。誰もがいうムシュカノーは偉大なサムライだ」という。「嘉納は英語が下手だかあの人には人望がある。俺は嘉納治五郎にはなれない」。
政治が「なれないし、ならんでいいでしょう」というと「嘉納はお前を買っている。お前はなるよ!」と。この言葉が1960年東京オリンピック誘致に政治を駆り立てたのではないでしょうか。オリンピックは政治のかけ引きの場でなくでなく人と人の繋がりというのがすばらしい。

熊本の四三。スヤ(綾瀬はるか)に美川に会ったことを話すと「ゴキブリ、あれは貧乏神!」と会うことをよく思わない。
四三は美川に「あんな女になった」と話せば(これもひどい旦那だ(笑))、「昔は可愛かった」と美川。四三は「旦那さん旦那さんと言われるが招きネコと一緒。家に縛られて面白くない。小松一緒に家でしよう」とぼやく。スヤがすっかり独裁者になりましたね!(笑)

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帰国した政治、副島、杉村は東京市庁舎で牛塚(きたろう)、山本(田中美映)と対策を話し「治五郎にラトウールに謝罪に行ってもらうしかない」と話が出たところに、治五郎が現れた。治五郎は「東京に呼んで、謝りついでに東京を視察してもらう。至り尽くせりのおもてなしで、接待するんだよ」という。治五郎はすでに、ラトウールに誘いの手紙「いかに東京がオリンピックにふさわしいか、オリンピックを待ち望んでいるかを見て欲しい」を出していた。

秋になりラトウールは訪日の意向を示し、ローマは正式に辞退を表明した。

政治はバー「ローズ」で河野(桐谷健太)に会いと、「ヒトラーがラトウールに圧力をかけ、東京指示を要求し、日本に恩を売ったんじゃないか。ラトウールの行動には裏がある」という。
政治はオリンピックを外交の道具のように捉える考え方に違和感を覚え「オリンピックは2週間かけての運動会。いつからそんな大仰な、国の威信を賭けた一大行事になったんだ」と叫んだ。
するとマリー(薬師丸ひろ子)が「田畑さんがメダルを沢山取ったからよ。あれで日本人もやれる、東京にオリンピック持って来られるって、思っちゃったのよ」という。政治は「違う」と否定すると河野が「東京に決まれば、あと4年は戦争にならん」と。

第12回オリンピック招致委員会が発足。政府から金が出されることになった。
会合で政治は「国のためにやるのではない。若いもののためにやるんです」とオリンピック開催の趣旨を述べた。

池部家では四三が、治五郎からの上京を促す手紙を受け取った。四三は家族に書き置きを残し家出を決行した。

孝蔵は暮らし向きがよくなり、7年暮らした業平の長屋を出ることにした。雪の朝、孝蔵(森山未来)とおりん(夏帆)は引っ越しの荷物を運び出す。その日は昭和11(1936)年2月26日だった。

オリンピック開催のカギになる“おもてなし”とは、日の丸弁当
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