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“いだてん”第37回「最後の晩餐」治五郎の夢のオリンピック

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嘉納治五郎役所広司)は開催が決定した1940年東京オリンピックの準備を勧めるが、日中戦争が始まった日本ではオリンピック反対論が沸き起こる。理想のオリンピックとは程遠い状況に激しく葛藤する田畑(阿部サダオ)を金栗四三中村勘九郎)が訪ねる。オリンピックへのふれる思いを語り合う2人。嘉納はエジプトでのIOC総会に参加し日本開催を危ぶむ声を封じ込める。帰国の船で乗り合わせた平沢和重(星野源)に、自らの夢を語るが・・・。

感想:
ストックホルムオリンピックからオリンピックに関わり、日本でのオリンピックの開催の意義を世界に認めさせた嘉納治五郎。日本開催に責任を持つと公言しただけに、時代は変化しその意義を失っているにも関わらず、引けなかった。しかし、嘉納治五郎の名前だけで説得できたという、これが凄い。エジプトからの帰りの船で、自分の夢見たオリンピックを語る姿は涙ものでした。
病気で亡くなったが、すでに嘉納は死んでいたんですね!オリンピック旗にくるまれた棺に、涙しました。政治に贈った時計は時を止めるなという遺言、政治の涙にも涙でした。

小松とリクは恋に落ちていた!次回「長いお別れ」、「神宮競技場には雨が降っていました・・」というナレーション。小松の夢が戦争で消えるという悲劇を見ることになりそうですね。
戦争とオリンピック。平和の有難さを感じさせてくれる、いいドラマになっていると思います。

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長嶋選手が生まれたころ東京オリンピック開催に意義を申し出るひねくれ者が現れた。
昭和12(1937)年、河野一郎桐谷健太)が国会で、「一触即発の日中関係のなかで平和の祭典。国防費のためにと国民に我慢と緊張を求める一方で、オリンピックというお祭りを開催する。このことが説明できないなら開催する資格がない」とオリンピック開催反対の狼煙を挙げた。

1937年7月7日、盧溝橋事件で日本と中国が全面戦争に入る。
委員会を開催するが、副島(塚本晋也)の「神宮競技場でいい」いう意見に、「ヒトラーのオリンピックを見て、こんなこじんまりしたものは出来ない」と治五郎が反対。ここに至っても、オリンピック開催会場さえも決まらない。

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バー「ローズ」、河野と政治。河野が「何故陸軍軍人を委員会に入れた、オリンピックを利用しようとしている。平和なオリンピックなど出来るわけがない」と政治を責める。政治は「そんなことは分かっている。もう、聖火ランナーの準備、オリンピックマークなど着々と進んでいる」と治五郎の気持ちを伝えた。

しかし、街の中は、出征兵士を送る日の丸の旗に溢れていた。だれもが戦争はすぐ終わると考えていた。が、

播磨屋。この年、辛作(三宅弘城)の妻が亡くなっていた。ツヤ(綾瀬はるか)が熊本から上京してきた。ツヤはリクを見て驚いたが、小松勝(仲野太賀)とリク(杉咲花)が恋していることに気付く。

8月、副島は近衛文麿にオリンピック開催の危機感を訴えた。500万の追加予算が認められないなら返上するもやむなしと。
開催委員会が開催され、副島が「日本は参加できない。名誉ある撤退を!」と訴えた。治五郎は「何が何でもやる」とこれを一蹴した。

政治は水泳選手育成の遅れを指摘すると野口(永山絢人)は「3年あるから何とかなる」と返事。これに怒る政治。選手たちが「出征しているなかで本当にオリンピックが来るのか」と不安がり始める。
河野が多くの者が出征しているのに、派手なユニフォームで練習するとはと怒りを露わにする。

四三が新聞社に「河野さんはどこに。東京でオリンピックは出来るんですか?」と飛び込んできた。「本当にやるんですか?1916年のベルリンオリンピック。自分は絶好調のとき戦争でダメになった。あの時よりイヤな感じ。戦争やっている国で平和の祭典は矛盾じゃないですか?」と聞く。

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政治は「兵を送り出す記事を見ながら、聖火コースを考えている。矛盾だ」と言えば、「今、選手たちは真暗くなっても走っている。梯子外される選手の苦しみ、夢を無くした選手の悲しみ、分かるでしょう。小松を走らせたいんです」とさらに問う。「スポーツに矛盾はつきもの。、なぜ走る、何故泳ぐ、答えはない。オリンピックしかない、戦争で勝つのではなく、これで勝ちたい」と政治。

これに応えるように小松は、四三、リクに励まされ、練習を励み成果を出していた。一方、政治も水泳選手に発破をかけていた。

12月、南京占領。日本は国際社会のなかで益々孤立化していった。政治の頭の中は戦争とオリンピックのことで大混乱。妻・菊枝(麻生久美子)から「カッパのまーやんに戻ってください」と気合を駆けられる始末。(笑)

オリンピック反対の声が高まる中で、治五郎はエジプトで開催されるIOC委員会出席に出発する準備をしていた。
副島が熱病で参加できないという。治五郎は「競技場も定まらず、報告すべきものは何もないが、日本は大国、済々堂々と引き受ける。嘉納最後の大芝居だ。付いて来ないか?」。「返上するなら同行する。返上してください。潔よく認めれば戦争が終わればもう一度オリンピックを開催できる」と泣いて訴えた。「返上しない!」と治五郎。

こんなことを知らず、四三と小松は走り続けていた。

カイロIOC総会。治五郎は四面楚歌、針の筵の上に座る思いだった。中国代表の王正廷が返上を求めてきた。治五郎は何も答えられない。返す言葉がなかった。全く情けない。

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「30年IOC委員を務める私を信じて欲しい。政治に関係ないオリンピックを証明して見せる。精力善用、逆らわずして勝!」と深く頭を下げ、改めてオリンピック開催が認められた。

開催されることになり、河野が政治に「違和感があるだろう」と聞く。「分かっている。日本は政治とスポーツを別にするなど考えられない。お国のためのオリンピックはいらない。しかし、嘉納さんは世界に認めさせた。やるしかない!河野助けてくれ!」と政治。

カイロからカナダを経由しての帰る途中で、治五郎は平沢平沢和重(星野源)に出会った。平沢がのちに1964年東京オリンピック開催立候補趣意説明演説を行った人。

出会ったのは食事のテーブルで。その時はステーキを食べ「精力善用すると疲れがとれる」と元気だった。横浜まで13日間お付き合いをしたという。しかし、時化で疲れが出て姿を消したが、数日後現れたとき、「人生で一番楽しかった時はなんですか」と聞き、自分の楽しかったこと話はじめた。

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「羽田の予選会でいだてんが現れたこと、日の丸を持ってストックホルムオリンピックに参加したこと、ロサンゼルスオリンピックで沢山の日の丸が上がり君が代を聞き俺は日本人だと叫んだこと」。
平沢が「一番は東京オリンピックではないんですか」と聞くと「それだ!一番おもしろいことをやる。東京で出来るということを、西洋人にあっと言わせてやる。みんなが驚く。オリンピックを見事にやって見せる。これが一番だ!」とそれは楽しそうに話したという。

昭和13年5月14日、太平洋沖で、嘉納治五郎は亡くなった。享年77歳だった。
ラトゥールは「氏はもっと永く生きて、氏の生涯の夢であった東京オリンピックを見るべきであった。この東京オリンピックこそ、氏が日本のあらゆるスポーツを今日の高き標準に引き上げるため費やした永年の労苦に対する報酬であったであろう」と追悼文を寄せた。

横浜に着いた治五郎の遺体と面会した政治に、嘉納先生からの預かりものだと懐中時計が渡された。時計が動いている。嘉納の気持ちを受け継げということだと「オリンピックはやる!」と政治は泣いた。嘉納治五郎の棺はオリンピック旗で包まれていた。

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