「ニュー・シネマ・パラダイス」のジュゼッペ・トルナトーレ監督が、師であり友でもある映画音楽の巨匠エンニオ・モリコーネに迫ったドキュメンタリー。
いくつかの作品は観ているがどのような人なのかほとんど知らない。音楽音痴が感想書くのもおこがましいと思ったが、この作品の中で語られるが、「彼が作る曲は音楽と関係のない奥さんが良いというものだけ監督に渡した」を知って、素人の目でいいんだと書いてみました。(笑)
1961年のデビュー以来、500作品以上もの映画やテレビの音楽を手がけ、2020年7月に惜しまれながらこの世を去ったモリコーネ。「ニュー・シネマ・パラダイス」「荒野の用心棒」「アンタッチャブル」など45作品にも及ぶ傑作から選ばれた名場面や、最高の音響技術で再現されたワールドコンサートツアーの演奏、クエンティン・タランティーノ、クリント・イーストウッド、ウォン・カーウァイ、オリバー・ストーンら錚々たる顔ぶれの監督・プロデューサー・音楽家へのインタビューを通して、モリコーネがいかにして偉業を成し遂げたのかを解き明かしていく。
さらに、モリコーネのプライベートライフやコメント、初公開のアーカイブ映像などにより、モリコーネのチャーミングな人間性にも迫るというもの。(映画COMより)
感想:
モリコーネが唇で発するリズムがそのまま映画になっていく。映画なのか音楽なのか?これがテーマ。
抜群に面白かった!
モリコーネは作曲家として映画音楽を始めた当時、この仕事は屈辱だと思っていた。ウエスタンが大ヒットしたが、これに復讐しようと頑張り、映画音楽作曲家のレベルを超えた域に達する物語。
モリコーネは医者になりたがったが、トランペット奏者の父の勧めで音楽学校に進学した。
父親が病気で、10代で父に代ってナイトクラブでトランペット吹いていた。屈辱を感じていたという。成績は普通だった。しかし、著名な作曲家・ゴツフレード・ヘトラッシの指導を受け、7年目で上級作曲の授業にペトラッシを師に選んだ。
人気のある師で良家の子が多く屈辱を感じていた。舞曲を書けと言われ辛かったという。次にリチェルカーレが出題され対位法を学んだ。ストラヴィンスキー 詩篇交響曲が好きでひたすら書いたという。映画との出会いはトランペット演奏として「オセロ」「ファビオラ」だった。
作曲の最終試験はオペラだった。二重フーガをきらびやかで官能的に書いたが実現しなかった。「くやしかった!」と今でも泣く!これが終生モリコーネの胸の中にあり、映画音楽をやることの劣等感になっていたのでなないだろうか。
音楽院の教師を諦め軍楽隊に入った。
編曲を命じられ管弦楽ための協奏曲を書いた。特に母親の好みに合わせるように“美しい曲”を書いた。ここでの最大に収穫は妻マリアに出会ったこと。
ダルムシュタットの現代音楽講習会に参加。
新しい協和音という即興グループが誕生した際、これに参加。楽器から音を出す従来の伝統的演奏法でなく過激なテクニックを用いた衝撃的な音を創生する。ここへの参加は事後のモリコーネの音楽に取り入れ大きな財産になっていると思う。この音をモリコーネが自分の唇で実演して見せてくれる。
モリコーネはこれの虜になり、人のために編曲もできず、自分の名前もでず不満だった。
破産寸前のRCAを救うために呼ばれた。(笑)
「恋のからまわり」は60年代の代表曲のひとつといわれている。奇抜なノイズ音を取り入れた。「水中眼鏡と鉄砲とみずかき」ではバスタブで“プールに”飛び込む音”を作った。「恋する塩味」が大ヒットした。「レイト・タイム」では作曲家の尊厳だけは守るようにした。(笑)そして「愛のあなたに」では対位法を使ってみた。「限りなき世界」(ジミーフォンタナ)は電話を掛けながら書いた。「太陽の中の恋」(ポール・アンカ)ではフレーズを繰り返してみた。(笑)「夜の声」(ミランダ・マルティーノ)ではベートーベンの“月光”から始まり、皆がぴったりだった。レコード界に奇跡を起こした。
映画に名前が最初に出たのは「ファシスト」(未)、次いで「赤い砂の決闘」(1963)「拳銃は問答無用(未)だ。
そこに「荒野の用心棒」(1964)、セルジオ・レオーネ監督から依頼がきた。
日本の映画「用心棒」を見せられ、これと同じ感じだ!と曲を依頼された。ふたりは小学校の同級生だった。(笑)当時のウエスタンのレコードを見せられたが“口笛”に変えた!
イーストウッドは「独創的だった!当時あのくらいオペラ的な曲はない!カルチャーショックだった」と語る。
しかし、決闘シーンでセルジオが「リオ・ブラボー」の“皆殺しの歌”を使えと揉めた。反対したら“似たやつ“というからTVで使った曲を使った。(笑)
イーストウッド「この曲で俺が引き立った!」と笑う。(笑)エレキから鞭で打つ音を含めいろいろな音を集めた。しかし、モリコーネはここで使った「口笛は好きでない」と語っている。
「夕陽のガンマン」(1965)。用心棒は好きな映画でなかった。口笛はやめてバッハを引用し「トッカータとフーガニ短調」を入れたという。「師であるペトラッシに褒められ、おかしいと思った」という。それは映画「にがい米」の音楽担当がペトラッシで、映画音楽を音楽だとは考えていなかったから。モリコーネは映画音楽に劣等感を持っていた。
J・ヒューストン監督からペトラッシの曲を断って「天地創造」(1966)の依頼があり、試作が気に入られたがRCAの許しが出なかった。とても悔しがったという。
そこにジッロ・ポンテコルヴォ監督から「アルジェの戦い」(1966)の依頼がきた。映画を超越した作品でまさか自分がやるとはと思ったという。「映画が生きてくるようにバッハを入れてくれと言われたが、私は作曲家だ」と断ったという。
これにはコヨーテの鳴き声をモチーフにした。ラストシーン近くで墓場を徘徊するシーンを見ながらモリコーネがメロディーを口づさむ。「なるほど!」と頷くシーンだった。(笑)これにより、当時のウエスタンはすべてモリコーネに来たという。タランティーノもそのひとりだった。(笑)
ここから次のステップ、実験の音楽が始まる。
「ガリレオ」(未)、ここではできるだけ音を減らそうとした。しかし、観る人に記憶が残るようミーナが唄う“束の間に燃えつきて”を3音を4拍子に表現し有効であることがわかった。
「ある夕食のテーブル」(未)ではふたつの曲が交差する曲にしたが気にいらなかった。しかし、監督は気に入った。この曲は時代を先取りしていると評価された。以後、音楽を知らない妻に選定してもらうことにした。だから監督が聞く曲は妻が好きな曲ばかりだ!(笑)
「奇怪な恋の物語」、エリア・ペトリ監督。狂気の作家の映画、難解な曲にした。バイオリンの曲にパーカッションに女性の声を加えた。革新的な試みだがオオコケで責任を感じた。(笑)「ウエスタン」(セシル・レオーネ監督)、これにはノイズも音楽を示したかった。列車の警笛を曲にした(笑)登場人物を音で表現するがうまくでき映像が音楽になっている!魅惑的な曲になった。「黄色い戦場」(1969)では本格的な交響楽を書いた。
「シシリアン」(1969)、アンリ・ヴェルヌイユ監督。これは苦労した!声、ドラム、コントラバスなどすべてを組み合わせ対位法で書いた。「音符などどうでもいい、作曲家は音符で何を表すかだ」と挑戦した。バッハの曲でシシリアがテーマというのが面白い。
「カーニバル」(未)ではとんでもないことが起きた。編集中に「ケマダの戦い」に盗まれた。「ケマダの戦い」のために別の曲を作ったがちょっと変えて女性に歌わせ合唱にした。マジカルになった。(笑)
1969年には21本も書いているからこういうことが起きる。しかし、コピーが出てくるわ、妬み中傷が起きるようになった。
「殺人捜査」(1970)エリア・ペトリ監督。アルベッジョの小曲を書いた。冒頭、数年前に作った曲に入れ替えられた。(笑)しかし、監督が「最高だ!」という。俺は怒った!皆がいいというから諦めた。これに与えられた評価は「これまでのすべての実験と創意を織り込み、さらに完成へと進むきっかけとなった」「衝撃的だ!音楽が映画を超えている。映画音楽というフォーマットが出来た」と評した。
これを見てスタンリー・キューブリック監督が「時計仕掛け」(1971)で同じ曲を書いて欲しいと言ってきたが、セルジオが「俺が約束している」と嘘ついて許さなかった。(笑)「俺は作りたかった!悔しいのはこの作品だけだ」と語っている。
スリラー映画への挑戦!
「歓びの毒牙」、ダリオ・アルシェント監督。はじめてのスタイルでやった。スクリーンの映像に合わせてやると映画では多くのことが出来ると思った。「私は目撃者」(1971)で同じことをしたが、同じ曲だと、不調和音が違っているのに、クレームがついた。
「死刑台のメロディー」(1971)ジュリアーノ・モンタルド監督。
このスタイルを変えた。ジョーン・バエズにピアノで唄わせ、これにオーケストラを被せた。これを見たバエズが「私を知らないのに音が合っている」と驚いた。そしてもう1曲作ってというから即興で作ったのが「勝利への賛歌」だ。大ヒットした。が、伝統的なメロディーへの回帰だと非難され、モリコーネはこれを受け入れていた。
この非難に対し、「アニエゼは死に向かう」(未)でジュリアーノ・モンクリッド監督が「モリコーネはふさわしい音を直感で判断できる。最初の音でモリコーネと分かる」とモリコーネを援護した。
「アラビアンナイト」(1974)、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督。
監督は「自分はカメレオンだと思ったがモリコーネは完璧に監督に合わせ、それでいて自分自身だ。優れた心理学者」と語るように、ここからは監督と作曲家の関係が説かれる。モリコーネは「監督が撮影、衣装、美術等すべてを統合するが、音楽ができない」と主張する。
「1900年」(1976)、ベルナルド・ゲルトルッチ監督。
映像見てすぐ書ける映画がある。試写会で映像を見ながら曲を書いたことに批判が出た。これにモリコーネを援護するとヴァレリオ・ズルリーニが「タタール人の砂漠」(1976)を製作した。モリコーネは「彼に最初の音を聞かせたらOKが出て信頼して撮った」と感謝した。この返礼に監督の結婚式にトランペットで結婚行進曲を吹いたという。(笑)
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(1984)セルジオ・レオーネ監督。
ふたりは生涯のパートナー。作品を話したときにその仕事は始まる。レオーネは詳しく話し、その音楽に頼っていた。作品における重要なセリフになっている。レオーネは撮影前に作曲させており、この作品では撮影開始の数年前にテーマ曲を書かせ、モリコーネは他にも曲を作って渡してある。ゼッフィレッリの曲が”デボラのテーマ”になっている。好きだからいれた。音を長くすることで語るようにしてある。俳優は音楽を聴くことが演技の助けになったという。
前時代のアカデミックな音楽家はモリコーネの才能を認めなかったが、これを決定的に変えたのがこの映画作品だと言われている。映画音楽をはるかに超えた何かがある。
「ミッション(1986)ローランド・ジョフィ監督。
映画のラストで皆が泣いた作品だ。モリコーネは音楽が作品を壊すと断った。ところがアイデアが見つかったとメロディーを送ってきたという。監督は「曲は私を超えていた!」と言い、モリコーネは「2か月で描いた。最初のオーボエが決めてだった。メロディーが流れてくる。これに大合唱を入れた。何かの力が働いた。オスカーを確信した」という。
しかし、オスカーは「ラウンド・ミッドナイト」のハーピー・ハンコックだった。オリジナル作曲賞のカテゴリーでこれは?という抗議の声があがった。
「ニュー・シネマ・パラダイス」(1988)ジュゼッペ・トルナトーレ監督。
モリコーネは作品を見て断った。しかし、モリコーネが会うというので監督が出向くと「シチリアの民族音楽を使いたいが・・」と切り出したという。監督はこのことを考えたこともなかった。監督のOKでモリコーネが曲を作った。監督は「モリコーネが去るといっても映画が追う。警察官の凱旋歌が必要だというと9曲送ってきた。6番は選ばないでくれとあった。暴力シーンは別の曲を書いてある。ある場面を別の視点で見せるのが彼の才能だ」と評価した。
モリコーネは駅のシーンをワルツで描きオルゴールを使った。(映像で展示される)製作総指揮のミーノ・バルベラが反対したが新聞に載って謝ってきたという。この作品がオスカーにノミネートされた。3度目だった。結果は坂本龍一、デヴィッド・パートの「ラスト・エンペラー」だった。
「Uターン」(1997)オリバー・ストーン監督。
監督は最初のスコアは自分の完成に合わず、レオーネスタイルで大袈裟なものだと言ったら、モリコーネは怒って帰った。(笑)。しかし直ぐに「これしかない!アイデアが見つかった」と返事してきたという。モリコーネは自宅でドラムの行進隊を見て「これだ」と思いつき、これにトウルス・ポンテスの歌を合わせた。
「海の上のピアニスト」(1998)ジュゼッペ・トルナトーレ監督。脚本執筆と作曲はほぼ同時に開始し撮影中も相談しながら作られ、モリコーネはピアニストに自分を見ていたという。
2001年9月11日のアメリカの悲劇。モリコーネは管弦楽のための「沈黙からの声」を書き、フルオーケストラと大合唱団を使った。「満たされた魂の隙間」、この音楽を聴くとすべてのことが思い出される。心の音楽の感じがすると評価された。
モリコーネは「映画の仕事は後悔してない。むしろ少しづつ私の中で絶対音楽と収斂していった」と述べている。絶対音楽に対する劣等感から解放されていった。
2007年2月、アカデミー賞名誉賞が付与され、プレゼンターはクリント・イーストウッドだった。
ロイヤル・アルパータホール公演。イタリア、ヴェローナのアレーナにおけるコンサートライヴ。全員が立って拍手、「イタリアの誉、マエストロ、モリコーネ」に鳥肌が立ったという。
モリコーネは「最初、映画音楽を書くことなど屈辱だと思っていた。やはて考え直した。実際、今では本格的な現代音楽だと思っている」と話すにいたった。
「ヘイトフル・エイト」((2015)クエンティン・タランティーノ監督。
タランティーノがレオーネ・スタイルを熱望した。(笑)モリコーネはストラヴィンスキー 詩篇交響曲を冒頭に持ってきた。「同じことはやらないぞ」と本物の交響楽を書いた。これでタランティーノを引っ込んだ。ウエスタンを復讐する気分で作った。過去との決別だった。
これにタランティーノは「映画音楽、作曲家のレベルを超えている。ベートーヴェン、モーツアルトにも匹敵する」と讃えたがモリコーネは「分かるのは200年先だ」と答えた。(笑)6回のノミネートで初めてオスカーを手にした。
モリコーネは1980年になったら、1990年になったら・・と「“辞める”と口にしていたがもう言わないことにした」という。
2020年7月6日、91歳で永眠。
まとめ:
モリコーネの語りで、観てない作品まで観た感じになった。どの作品も観たい!ということでだらだらと長くなってしまった。
モリコーネの残した言葉は「音楽は書く前に熟考せよ!それが問題だ!そこに何を書く!熟考だ!」。
モリコーネの夢は冒頭シーンに出てくる自分で曲を書き、オーケストラを指揮することだった。まだ旅は終わらない!あの世でも曲を書いてタクトを振っているでしょう。
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