映画って人生!

宮﨑あおいさんを応援します

「止められるか、俺たちを」(2018)

イメージ 2
196971年、若松孝二のもとで助監督を務めた21歳の女性吉積めぐみを通して見た、若松プロの青春グラフィテイー。
白石和彌監督、役井浦新さん、毎熊克哉さんによる舞台挨拶付きで鑑賞しました。恩師を描くことの葛藤、当時の新宿を再現することの難しさ、その遺志を継ぎたいと語られました。
 
カメラを止めるな!」(2018)のように、若松組の映画製作の現場に笑い、映画を作ることの楽しさを知りました。そして、学生運動の興隆から敗北、内ゲバから武装闘争と移行する時代に、「映画を武器に世界と戦う」「日本映画界をブチ壊す」と抗う映画監督若松孝二さんの生き様に心打たれました!映画には何が求められるかを考えさせられます。
 
主演は門脇麦さん、井浦新さん。共演に山本浩司・阿部尚・大西信満・タモト清風・毎熊克哉・寺島しのぶさん、ほかに若松作品に出演された多くの方々。さらに若松プロのメンバーである実在の映画人たちが多数参加されています。
 
ここでの井浦さんの演技、まさに怪演、すばらしいです。晩年の若松監督を30歳に戻すとこうなると思えます。門脇さんも、新宿の“ふうてん“から若松組に入り男性のようにずぶとく鍛えられていく様が自然に感じられとてもよかったと思います。
 
あらすじ:
当時の若松プロをピンク映画製作と一括りにすることはできない。そこには時代のメッセージが込められ、戦うための金稼ぎをしながらしぶとく生きて、遂には「映画で革命!」へと走り出す。
こんな若松映画に憧れて組に加わり、若松の映画製作を支え、助監督としてもっぱら金儲けピンク映画をつくり、遂に監督の座を射止めて亡くなるという彼女の青春。そこで彼女が見たものは・・・。
 
主人公は吉積めぐみですが、内容的には若松孝二が主体となっています。吉積にこの作品の監督白石さんが乗り移り、監督を偲ぶという意図ではないでしょうか。こうしなければこの作品を世に送り出せなかったのではないでしょうか。
 
物語のラストで吉積さんは亡くなりますが、その死因はいまだ明らかではない。夢を達成せず亡くなったこの結末がちょっと寂しいです!
 
****
19693月、ふうてんのめぐみ(門脇麦)は新宿の街頭でタバコをくゆらしていて、若松プロ秋山道男(タモト清風)にピンク女優としてスカウトされる。彼女は「胎児が密猟する時」を見て若松映画に興味を持ち、若松(井浦新)の助監督志望だという。
 
こんな彼女に若松がかけた言葉、「給料は払わない。ギャラは出す、助監督なら。3年我慢したら監督にしてやる」というもの。この言葉が彼女の支えになり頑張るわけです。()
 
まずは「女学生ゲリラ」(監督:足立正正)に女優として参加。安田講堂が落城して、今度は俺たちと高校生たちが山の中でゲリラをやるという話。
学生の卒業制作なみの、小さなクルーでの作品制作。彼女は女優のほかに、撮影の雑用(大半)とこぎ使われる。() 
ここでの、若松の映画の撮り方。現場にやってきた彼は「理屈はいい、映画に理屈は映らない。おまえの映画はだめ」と足立正生山本浩司)をこき下ろし、自らカメラを振り回す。() 
イメージ 3
こんな若松のパワハラのもとで初号を撮り終え、誘われて飲み屋に。ここで若松の映画理念が語られる。「俺はぶち壊したいんだ!こんな腐った世の中、クソみたいな映画界も全部。そう思って映画を撮っている
イメージ 5
飲み屋のママさん(寺島しのぶ)が、
「おマワリ殺したいんじゃない」
「あの犬どもサイテイだ。権力に溺れている」と気勢を挙げ、「映画の中で殺す」。
() どうやらあちらの組にもいたらしく、刑務所にも世話になったらしい。
 
これを聞いた赤塚不二夫音尾琢真)が「映画やマンガなら自由になんでもできる」とはやし、ふたりで世界に向けて小便を飛ばす。()これにめぐみはびっくりするが、一緒に小便をとばしたい気分になる。() 
イメージ 4
赤塚不二夫との出会いがあったことにびっくり。新宿のバーで大島渚高岡蒼佑)と映画論議
TVではなくて、映画で、客にヤイバを突き付けるようなものをやりたい」とふたりで盛り上がる。
 
こんな映画作りの生活に馴染んでいくなかで、「通り魔の告白」(1969)制作時、新入りのカメラ高間賢治(伊島空)に出会う。彼が若松に弄られる。見かねためぐみが労わります。
後にふたりが結ばれることになりますが、彼女の死因にも絡んできます。
 
この時代の若松作品を全く観ていない。タイトルのユニークさと吉積めぐみの関わった作品ということで観てみたくなります。( ^)o(^ )
 
「女学生ゲリラ」の宣伝ビラに警察からクレームが付けられ、貼り出せない。これでは経営が成り立たなくなると、「売れる映画つくるか!う~んとイロっぽい、主義主張なんてどうでもよい」と作った作品が「初夜の条件」(1969)。めぐみの名が、助監督としてクレジットに焼き付けられた記念すべき作品です。
 
この作品に助手が「監督の映画じゃない」とクレームを付けたことに若松は「やりまくったって映画は映画!」と意に介さない。めぐみがこの助手を「監督が一番分かっている!」と掴みかかる。もう、完全に若松教にしっかりはまっています。
こうやって、映画人として生き残って、世界と戦う若松さんの姿勢がすばらしい。
 
小水一男や沖島勲岡部尚)が監督作を発表し若松組を離れることになり、めぐみが助監督として、「走れ!死ぬ気で走れ!」という若松名物の出演者泣かせの全力疾走を指揮し、「競走情死考」を撮る。走る!走る助監督になりました。
イメージ 1
そして、「性教育 愛のテクニック」(1070)で、「68手もあるんじゃ疲れた」と数カットをめぐみに監督代行を命じます。() ここで、めぐみが俳優に演技をつけるところが笑えます。
 
「秘花」(1971)で、チーフ助監督として参加し、監督から「女親分襲名だ!」と認められる。
イメージ 9
197011月、荒井晴彦(藤原季節)が若松組に加わる。「監督って、インテリがやると思っていたけど、若松さんは映画も観ないし、本も読まない。俺にも監督できるとやってきた」という。() 
イメージ 6
荒井が入って、若松プロは活気つく。特に足立が脚本を書き始める。めぐみも書きたいが書けない。監督はやりたいが「何を撮っていいのかわからない」と悩み始める。
 
若松はATGへ。これを支えるため、めぐみは連れ込み宿で観る30分もののエロ映画を作ることになります。彼女は脚本を書き、若松の許可をもらって「浦島太郎」を撮る。() しかし、若松からは評価してもらえなかった。
イメージ 8
若松はカンヌ国際映画祭に招待され、足立を伴い参加。帰りに、大島の「誰も撮ったことがない」という勧めに従い、パレスチイナに立ち寄り解放人民戦線のドキュメントを撮る。
イメージ 10
若松らがこの地を離れた直後にコマンドたちはヨルダンの攻撃を受け処刑されるという惨事に見舞われた。
 
帰国すると、亡くなったコナンドたちへの熱い想いから、持ち帰った資料を「赤軍―PFLP-」(1971)として、上映隊を組織し全国で上映活動すると企画し、巡回バスを赤く塗りはじめる。めぐみには映画を撮れと指示する。
 
このころ、めぐみは女性のピンク映画助監督はめずらしいと雑誌インタビューを受けていました。そこでは、「いずれ若松孝二にヤイバを突き付けなければと思う。突き詰めればやるかやられるか。それを暴力なしでやろうとしているのだから、映画って、本当に難しい」と語っていました。
 
このときめぐみは妊娠6か月。皆と一緒にバスの塗装に加わりたいが、若松に「誰が映画をつくる!」と追い返される始末。
 
めぐみは、扇風機でお腹を冷やし、ウイスキー睡眠薬を飲んで、再び目を覚ますことはなかった。若松は「おれの娘だ!」と悔しがった。
 
めぐみは、若松が褒めてくれる作品をつくりたかったのではないでしょうか?
 
若松は、全国上映に出かける赤いバスを見送り、次の映画作品をプロデューサー葛井欣士郎奥田瑛二)に「ばんばん爆弾投げるから・・」と告げる。
イメージ 7
めぐみが生きていれば・・・

若松監督は、弱い人たちの目線で、大きな権力が蓋をするものをこじ開け、これで日本はよいのかと問い続け、映画を作るしか出来ないからと言い続けて亡くなったと言います。しっかり、遺志を継いでもらいたいと思います。   
                ****