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“いだてん”第40回「バック・トウ・ザ・フューチャー」

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1959年.東京オリンピックの招致活動が大洲目を迎えていた田畑(阿部サダオ)は、東京都庁にNHK解説委員の平沢和重(星野源)を招き、きたるIOC総会での最終スピーチを引き受けるよう頼み込む。断る平沢に対して田畑は、すべてを失った敗戦以来、悲願の招致のために全力を尽くしてきた自分の「オリンピック噺」を語って聞かせる。それは、戦後の食糧不足の中、浜松で天才・古橋廣之進北島康介)を見出すところから始まる・・・。

感想:
日本は敗戦とともにGHQの管理下となるが、田畑は「国が元気づくにはオリンピックが必要」と走り出す。成功した1940年オリンピック招致をなぞるように、体協組織を立ち上げ、ロンドンオリンピックには参加できなかったが裏オリンピックだとでもいうべき大会を開き、水泳で古橋・橋爪という世界的な選手を育て世界の注目を引き、政界を巻き込んで神宮競技場を国立競技場に改修し、仕上げとなる東京オリンピック招致演説を嘉納治五郎の死に立ち会った平沢和重が行うという、まるで嘉納治五郎の夢が正夢になる瞬間に立ち会ったというドラマだった。

この時代を生きた人はまだまだ多い。きっと思い出しているでしょう。古橋・橋爪の活躍がどれだけ励みになったか!東京オリンピックの成功に心躍ったか。沢山の記録フィルムが見れてよかった。

平沢を説得する政治の言葉。これは今の時代に生きている。
「アジア各地でひどいこと、むごいことをしてきた俺たち日本人は、面白いことをやんなきゃいけないんだ、一番おもしろいことを!」
率直に自分の非を認め、謝罪の気持ちを行動で示めそうと訴えている。田畑は常にオリンピックという国際的視点で物事を考えるから出てくる言葉。自分を主張することも必要だが、それだけでは世界は動かない。今の世界に繋がってくる大河ドラマでとてもおもしろいと思うのですが・・・。

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今回から1964年東京オリンピック噺へと向かいます。
昭和34(1958)年、東は出馬し都知事となった。ミュンヘンで開かれるIOC総会に向け、田畑ら招致委員会は万全を期して準備を進めていた。ところが、総会の2週間前になって問題が起きた。オリンピック招致の最終スピーチを行う予定の外交官・北原秀雄(岩井秀人)が運動会で転びアキレス腱を切ってしまった。北原は自分の後任に、元外交官で今はNHK解説委員の平沢和重(星野源)を推薦した。しかし、この男が動かない!

田畑の秘書・岩田幸彰(松坂桃李)が、「嘉納治五郎追悼特集の講道館機関誌“柔道”に貴方が寄稿した記事『心から東京オリンピック成功を祈らずにはおれない』がある。協力して欲しい」と説得するが「あれは幻だ、まだ早い」と受け付けない。
平沢はカイロでのIOC総会を終えて帰国中船内で死去した治五郎(役所広司)を看取った人物。しかし、1964年の東京オリンピック招致は時期尚早だと反対した。

田畑は土下座してまーちゃん流“オリンピック噺”を始め、説得を試みます。

昭和20(1945)年9月、終戦直後の東京は焼け野原だった。神宮競技場も被害を受けGHQによって封鎖されていた。そんななかで田畑はバー「ローズ」で東龍太郎松重豊)、松澤一鶴皆川猿時)と会っていた。田畑がオリンピックをやるということに松澤が驚いた。東は「クーベルタン普仏戦争でドイツに敗北した祖国をスポーツで盛り上げようとして、近代オリンピックが生まれた。そう考えると敗戦国日本がオリンピックを目指すのは当然だ」と賛成。この三人で日本のスポーツを立て直そうと田畑は立ち上がった。

田畑は11月にオリンピック関係者15人をバラックに集め体協の再建を決め、会長は東が務めることになった。田畑は水連理事長に就任し、戦地から戻ってきた元オリンピック選手・小池礼三(前田旺志郎)、宮崎康二西山潤)らを指導員に迎えて水泳の強化合宿も行った。そのかいあって、自由型の有望選手・古畑廣之進(北島康介)がめざましい成長を遂げた。

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古橋は田畑と同じく浜松の出身。日本選手権では世界新記録を出したが、敗戦国である日本は国際水泳連盟から除名されており、公式記録として認められなかった。

昭和23 (1948)年には、ロンドンで12年ぶりのオリンピックが開催された。そこで、田畑は裏オリンピックだとでもいうべき大会を開いた。接収されていた神宮プールの使用をGHQに認めさせ、オリンピックの水泳競技と同じ日程で日本選手権を開いた。田畑は「ここはロンドンだ。ワールドチャンピオンを作る!」と意気込んだ。
この大会の1500m自由形で古橋と橋爪四郎はオリンピックの優勝タイムを超える記録を出した。この出来事は敗戦後の日本人の心を明るくし、若者たちを鼓舞した。

昭和24(1949)年、水連は国際水泳連盟に復帰し、全米水泳選手権に招待された。占領下で選手にパスポートも発行されない時代だったが、田畑が連合国軍最高司令官マッカーサーに直談判して渡米が可能となった。マッカーサーは「徹底的にやって来い。卑屈になるな!」と激励した。この言葉には驚きました!しかし、役者さんが、マッカーサーに似てなかった。(笑)

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この大会で日本選手団は6種目中5種目を制し、古橋は前勝利を世界新記録で飾った。

昭和26(1951)年にはサンフランシスコ講和条約で日本の独立が認められ、東がIOC委員となり、翌年のヘルシンキオリンピックで日本は戦後初めてオリンピック参加を認められた。田畑は選手団長として103人の選手・役員を率いた。
古橋は自由形400mで出場8位という結果に「決して古橋を責めないでください」と実況された。橋爪は1500mで銀メダルだった。
ヘルシンキオリンピックの特徴は、費用の全てを入場料で賄い、市や国からは一切助成を受けなかったことだった。

組織委員長のフレンゲルの「オリンピックは金儲けになる」に押されて、田畑と東は吉田茂首相にオリンピック開催を直談判した。しかし吉田の腰は重く、田畑はみずから「国のため、若者のため」に政治家になろうと決意、衆議院議員選挙に静岡2区から立候補した。実家の土地を売って選挙費用を作った田畑だったが、演説で口にするのは東京へオリンピック招致のことばかりで、落選した。(笑)

田畑は昭和35(1960)年の東京オリンピックを東京で開催しようと招致運動に励んでいた。しかし、結果はローマの圧勝。東京はわずか4票しか獲得できなかった。田畑はすぐに、昭和39(1964)年のオリンピック招致を目指すことを決めた。田畑は東京がもはや焼け野原でなく経済復興を遂げていることをIOC委員に見せる必要があると考えた。

昭和31(1956)年。聖火は南半球へと渡り、オーストラリアのメルボルンで解された。田畑は英語が堪能な秘書・岩田幸彰(松坂桃李)を同行させ「今の日本を見てください。敗戦から立ち上がった!」と地道なロビー活動を行った。そのかいあって、次のIOC総会は東京で開催されることになり、併せて、わが国で立派にオリンピックが出来ることを世界に見せつけるために、アジア競技大会を神宮競技場で行うことを決定した。
しかし、治五郎が作った神宮競技場の老朽化が進んでいた。そこで総理大臣に直談判し、昭和33(1958)年神宮競技場は8万人収容可能な国立競技場として生まれ変わった。
IOC総会はNHKホールで、盛大に開かれ、ブランデージ会長は「東京にはオリンピックを開催する資格が十分にある」と太鼓判を押した。

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田畑は東に都知事選への出馬を勧めた。戦前のオリンピック招致の際、組織委員会内の意思が統一されず混乱したことによるもの。
東は「自分は医者だ」と断り、家族も大反対だった。東と妻・照子、息子が田畑の家に押しかけ断りを入れたが、田畑の妻・菊枝(麻生久美子)が「田畑ひとりの力ではかなえられません。力を貸して欲しい」と申し出ると、東が「戦後15年、俺はやりたい」と決意を翻した。

平沢が「どうしてあなたがたはオリンピックに魅せられるのですか?」と聞いてくる。

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田畑は平和、“ぺ“だと答えた。そして、5年前フィリピンに遠征したときの話をした。
「水泳選手たちが競技場の前でバスを降りると幼い少年が石を投げてきた。それをきっかけに現地の人たちが罵声を浴び始めた。出場を止めて帰国しようとしたら、宮崎や小池が「俺たちには水泳しかないから泳ぐべきだ」と主張したんだ。泳げば何かが変わるかもしれないと大会開催を決めた。俺たちは皆に頭を下げて泳がしてもらった。楽しませなくちゃいけないんだ。アジア各地でひどいこと、むごいことをしてきた俺たち日本人は、面白いことをやんなきゃいけないんだ、一番おもしろいことを!」。

平沢は、東京オリンピック開催を願う治五郎の言葉を思い出した。「これから一番面白いことを始めるんだ、東京で!」そう語ったときの治五郎の笑顔を思いうかべ、平沢は「そこだよそこ、おもしろいなら!IとOC総会での最終スピーチを引き受けた。「解説委員として原稿を棒読みにはできない。言葉で自由に話したい」と付け加えた。

平沢は娘・洋子にオリンピックのスピーチをすることを話すと小学校の教科書を暗唱するではないですか!

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平沢がミュンヘンの総会で「6嘉納の最期を看取った男です」と紹介され、演壇に立った。「6年生の教科書に、五輪の旗という話が載っています。・・・この時が来ました。五輪に示される最後の旗、アジアです!」。

いよいよ東京オリンピックがやってきます。
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