終戦記念日を前に、この作品を選んでDVDで観ました。「聯合艦隊司令長官山本五十六」作品はいくつかあるようですが、半藤一利さん目線で描かれる「太平洋戦争70年目の真実」に期待して観ることにしました。
日米戦争に反対であったにも関わらず、その緒戦の当事者なり、自らの信念に基づき早期講和を目指すが予期もしない敗北を味わい、最期に死人となってソロモン群島守備に立った将軍。
なんでこうなったのかと、戦争目的が不明確で終戦計画などなかったという当時の戦争指導者の無茶苦茶ぶりを知りました。そして、組織のありかたや運用など、戦争とは全く関係ない現在の社会にあって、組織人として考えさせられる作品でした。
太平洋戦争を学ぶには良い作品だと思います! しかし、こういう戦闘シーンも考えられるというぐらいの戦闘描写ですから、戦闘アクションには期待しないほうが良いです。(笑)
監督は成島出。監修:半藤一利、脚本:長谷川康夫 飯田健三郎、撮影:柴主高秀。
主演:別所広司、共演:玉木宏、柄本明、柳葉敏郎、阿部寛、吉田栄作、椎名桔平、坂東三津五郎、原田美枝子、中原丈雄、香川照之らです。
役所広司主演『聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-』予告編
あらすじ(ねたばれ):
昭和14(1939)年、海軍省の門前で陸戦隊1コ小隊が小銃を構えるというシーンから物語がはじまります。時の海軍大臣米内光政(柄本明)、次官山本五十六(別所広司)、軍務局長井上成美(柳葉敏郎)が日独伊三国同盟に反対したことに対するデモンストレーションだった。山本の言い分は日米が戦闘せざるを得ない状態になるというものだった。
しかし、大きな圧力に押され三人はばらばらに。1939 年8月、山本は連合艦隊司令長官に就任する。欧州ではドイツはポーランドに侵攻した。
山本は、持論である、空母搭載機を主体とする訓練に情熱を燃やしていた。
昭和15(1940)年5月、ドイツはベルギー、オランダ、パリを1か月で占拠した。これにより日本では三国同盟締結の声が上がった。
9月、戦争指導会議で海軍大臣及川古四郎が三国同盟締結を示し、これに山本が「締結すれば日米戦争となるため航空戦力を2倍にする必要がある。鉄・石油の不足を補う対策はどうなるか」と問う。これに「答えはない。皆の意見だから!」というものだった。
山本は連合艦隊先任参謀黒島亀人(椎名桔平)に、いつでも戦闘開始できるよう至急電で「サクセン ジュンビ セヨ」と送った。
連合艦隊は第1航空艦隊司令に南雲忠一(中原丈雄)が着任してきた。南雲が山本の後輩だが、艦隊決戦主義者だった。
山本が着任挨拶にやってきた南雲に「めしでも食おうか!」と誘ったところ「赤城に戻ります」と受けなかった。これが海軍兵学校で同じ飯を食った仲?後にもいろいろとふたりの間には問題が出てきますが、半藤さんの視点なんでしょうが、この行為は許されないでしょう!国民が何のために兵学校で何年も一緒に飯を食わせたか!
昭和16年6月22日独がソ蓮との不可侵条約を破棄。
昭和16年11月、永野軍令部長から山本長官に日米作戦準備命令が下達された。
永野軍令部長は首相にその可能性を聞かれ「やってみなければ分からない」と答えた。これはひどい!
日露戦争では終戦計画まで作られていたというのに、いつの間にこんな傲慢な海軍になったのか?
連合艦隊全司令官、参謀長、主任参謀を招致しての作戦会議。
ハワイ奇襲作戦を黒島先任参謀が説明。「択捉に北上し、南下して360機の航空機でハワイを奇襲する計画。南雲が「この寒い時期に?軍令部案どおり南方の拠点を押さえるべきだ」と異を唱えた。
山本は「勝つチャンスは初戦にしかない。これで早期講和だ。他に方法はない」と押した。
南雲はこれを永野に報告、南雲は「一隻たりとも失うな!」と厳命された。「こんなバカなことがあるの」と思いました!
作戦開始にあたり山本が「ワシントンでの日米交渉が成立した場合は反転帰還せよ。民間施設を攻撃するな。開戦通告は確実にやれ」と指示した。「敵を前に反転はできない!」という南雲に「100年兵を養うは何のためか?平和だ、帰れない指揮官は出動を禁ずる」と強く戒めた。
12月8日、ハワイ急襲に成功。
しかし、空母が不在だった。第2航空艦隊司令山口多聞(阿部寛)は第2次攻撃の必要性を南雲に進言したが、南雲は「作戦海域からの離脱」を命じた。
瀬戸内海の連合艦隊司令部にいた山本は「ここは南雲の判断に任せよう!我々には分からんことがある」と南雲の判断を認めた。
しかし、山本は攻撃開始通告が遅れ米国の戦意を煽ったこと、空母を撃破できなかったことで、作戦は失敗だ!」と再度のハワイ攻撃を考えていた。
軍令部は艦艇に1隻も傷なし、作戦大成功と万歳を叫んでいた。永野は「戦は戦ってみないと分からない!」と嘯く。国民は国旗を振って祝った。
昭和17(1942)年2月、シンガポールが無条件降伏。陸軍が戦線拡大に動き出した。
次期作戦の展望を聞きにきた東京日報の宗方主幹(香川照之)に、山本は「講和だ!」と喋り、宗方は怒って帰った。真藤記者(玉木宏)に「世論とは何か、新聞はどうあるべきか、世界を広く見ることだ」と語った。
東京日報に連合艦隊はハワイを狙っているという情報は入って来る。
永野軍令部長が南雲を呼び出し、「山本が米機動部隊を誘い出しせん滅と言っているが、戦線拡大のための島を占領するのが第1の目標だ!」と次期作戦の意義を説いていた。何で山本を呼んで説かないか?
連合艦隊指令長官室。各司令官、参謀長に黒島先任参謀からミッドウエー作戦の説明があった。
山本は、懇切丁寧に、ミッドウエーの作戦の意義、「ミッドウエー島攻撃は囮で敵機動部隊をおびき寄せ一挙に叩くことだ」と南雲に分かるように説き、さらに「空母赤城艦載機の半分に魚雷を抱かせておけ!」と細かく指示した。ハワイ攻撃の二の舞を踏まないための配慮だった。中将でここまで示されるということは稀でしょう。
昭和17年5月、連合艦隊旗艦「大和」は機動部隊を追って出撃。現場海域で山本自らが指揮を執る覚悟だ。
夜間、雨だった。空母赤城では「敵空母は出て来ない」と判断し、あれほど山本から念を押されていたにもかかわらず、魚雷に変えて地上攻撃用の爆弾を抱かせて甲板で待機。
米機動部隊は予想通り出てきたが、南雲の判断ミスで爆弾から魚雷への転装が間に合わず敵機に狙われ、連合艦隊の空母4隻、搭載機290機を失うという大敗北を喫した。第2航空艦隊司令官山口多聞は空母飛竜と運命をともにした。
旗艦大和に状況報告にやってきた南雲。今度は山本の勧める朝食の“茶づけ“を涙を流しながら食べた。山本は南雲を責めなかった。
大本営はミッドウエー作戦の成果を「米空母撃沈。太平洋の戦局一瞬に決す!」というものだった。真藤には信じられない報道だった。 ガダルカナルの飛行場建設は海軍が立て作戦。旗艦大和はトラック島に進出して指揮。米軍の進出が早く大苦戦で撤収することとなり、山本が責任をもって撤収作戦を終えた。
その後ラバウルを航空主力基地として、山本は出撃兵士を見送る毎日であった。
一気にマリアナまで引き、ガム・サイパンを浮沈空母として航空決戦を挑みその勝利をもって講和を目指すことにして、捨て石として残す兵士慰問中、昭和18(1943)年4月18日、ブーゲンビル島上空で待機する敵機に撃たれ、戦死。
戦後、東京の焼け野原を望み、真藤は「我々はいつ、何を間違えたのか。そして一体何に負けたのか」と苦悶するのだった。
感想:
「世界を広く見よ!」と山本将軍から教わった半藤さんの視点から見た太平洋戦争。当時の日米の国力差に置いた山本将軍の戦争観を踏襲した物語で、役所さんの魅力溢れた作品でした。
海軍という組織、軍令部長や連合艦隊司令長官、第1航空艦隊司令官の意志疎通が不十分だったことが作戦に大きな影響を与えたようですが、300万人もの死者が出たことを思うと、なんとも居たたまれない気持ちです。
「やって見なければわからない」という軍令部長、国の戦争責任者のひとりがこの姿では、戦争が博打になります。大変不幸な戦争だったと唖然としました。
日米戦争に反対だった山本次官が、本当は嫌だが組織人として決まったことして私情を捨て、義を尽くすと連合艦隊司令長官に就任。軍令部長や首相の視点から状況を判断する姿勢は見事でした。仕事の仕方は数段上からの目線で考えるべきですが、なかなかこうはいかず、見方が小さなものになってしまいます。山本長官が「世界を広く見ろ!」というのもこの視点が必要だということでしょう。記者の目線が低すぎました。
ハワイ奇襲作戦で第2撃を加えず戦場離脱をした南雲司令官を「現場には分からないことがある」と参謀たちの司令官批判をぴしゃりと押さえる、ミッドウエー作戦での南雲司令官の失策も全く責めなかった 。
失敗したときは本人が一番苦しんでいる。これを責めたら、周りの人はついてこない!
南雲司令官が山本長官の部下でありながら、軍令部長の指示に従うというのはダメでしょう。永野軍令部長が大人気ない。戦争物語というより、人間臭い物語だった。
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