映画って人生!

宮﨑あおいさんを応援します

「銀河鉄道の父」(2023)生き狂った賢治の生き様、これに関わる家族の愛!

早逝した息子宮澤賢治の作品を世に送り出した父政次郎の息子への愛を描いた作品。

誰でも知っている宮澤賢治と言われますが、名前は知っていますが、その作品を深く読んだことも、ましてその生き様など知らない。

監督が成島出さんで、描かれる骨太の親父像は好み。監督作では常連の役所広司さんが主役、これに若手ホープ菅田将暉さん、「ラストレター」の森七菜さん出演ということで、この作品を選びました。

原作:門井慶喜さんの直木賞受賞作「銀河鉄道の父」(2018)監督:成島出脚本:坂口理子撮影:相馬大輔、編集:阿部瓦英、音楽:海田庄吾主題歌:いきものがかり

出演者:役所広司菅田将暉、森七菜、豊田裕大、池谷のぶえ、水澤紳吾、益岡徹、坂井真紀、田中泯、他。

物語は

岩手県で質屋を営む宮澤政次郎(役所広司長男・賢治(菅田将暉は家業を継ぐ立場でありながら、適当な理由をつけてはそれを拒んでいた。学校卒業後は農業大学への進学や人工宝石の製造、宗教への傾倒と我が道を突き進む賢治に対し、政次郎は厳格な父親であろうと努めるもつい甘やかしてしまう。やがて、妹・トシの病気をきっかけに筆を執る賢治だったが……。(映画GOMより)

死と生を問い掛ける心理描写の多い原作の映画化。それだけに提示されるエピソードをどう読むか、観る人に任される余白のある演出。映画らしい作品になっています。想像もしなかった宮澤賢治像を見せてくれ、とにかく笑えて、泣けるエピソードが一杯。賢治の生き様にどう家族が関わったか、強い家族の絆に感動されられます。


www.youtube.com

あらすじ&感想(ねたばれあり:注意)

物語は冒頭、1886年明治29年)9月商に出ていた政次郎は長男・賢治誕生の電報を受け取って家に急ぐ列車のシーンから始まり、ラストは銀河鉄道列車で旅に出た政次郎のシーンで終るという、作品そのものが“銀河鉄道の夜”物語になっています。

商いから急いで戻った政次郎は賢治を抱き上げて喜びますが、すでに名前は政次郎の父喜助(田中泯)により賢治と名付けられていた。(笑)

5歳の賢治が赤痢で隔離入院。「よせ!」という喜助の制止を振り切って看病に付き添うという、“父親すぎる”政次郎でした。(笑)

1914年(大正3年)、賢治16歳、中学を卒業。成績は88人中60番。政次郎は「家業につけ!」と言うと、「嫌だ!トルストイの小説を読んだ。お父さんやっていることは農民から金をとり苦しめることだ」と拒否した。農民に掛ける想いは賢治の精神的バックボーンになっていく。

政次郎は「農民を助けるためにやっている」と賢治を番台に座らせた。鎌を質草にやってきた女に5円も貸すという桁外れた世間知らずの賢治に暇を与えた。(笑)

成すことなく土手に寝っ転がってるところに2歳違いの妹・トシ(森七菜)が通りがかり「何しているの、お兄ちゃんは日本のアンデルセンになりたいが目標だった。文士になったら」と勧めた。賢治は「文士も商の才もない!」と投げやりに答えた。

賢治は政次郎に「進学したい」と申し出たが「長男のお前がバカ言うな!」と断わられた。これを聞いたトシが政次郎に「お父さんは時代を見る新しい父親、学問は宮崎家の将来のためになる」と賢治の進学を説得した。脇の甘い政次郎は“時代を見るあたらしい父親”に感動し賢治の進学を認めた。賢治は「農民を助けるために」と盛岡高等農学校進学を決めた。

1919年(大正8年)、学位を取得し研究生となった賢治が「人造宝石で家業を継ぎたい」と言い出した。唐突なこの言い出しに政次郎は翻弄される。

雪の日。老いた喜助が突然死の恐怖に駆られ暴れだした。東京の女子大から帰省していたトシが「死ね!」と頬を叩き「安心して!誰でも死ぬ!家族はみんなお爺ちゃんが好きだから心配ない」と抱いて喜助をなだめた。「わしの子供が出来た」と喜ぶ喜助を政次郎が抱いて泣いた。賢治は成すことなくこの情景を眺めていた。

喜助が亡くなった。白い喪服の会葬者の長い葬列が火葬場へと続く。このシーンを空撮で撮り、丁寧に描いています。生と死が繋がる儀式だった

葬儀の後、賢治が仏壇で経をあげるようになり、ある夜、政次郎に「学校辞める。人のために何が出来るか己に問うてみた。俺は修羅になり人でなくなる。日蓮宗で生きる」と申し出た。ふたりが大喧嘩を始めた。祭りの日にも、賢治はその輪に加わることなく、人目を憚らず、日蓮の教を唱え太鼓を打っていた。狂気の賢治の姿に驚きました。

賢治は家を出て、東京の国柱会に入会し、ひとりでの下宿生活が始まった。どんと痩せ細っていく賢治。

1921年(大正10年)、そんな賢治に「トシビョウキ カエレ」と電報が届いた。賢治は原稿用紙を買い、物語を書いてトシが療養している別荘“桜の家”を訪ね、物語風の又三郎を面白く語った。

これにトシは大いに喜んだ。賢治はまた続きを書いた。この一部始終を政次郎が見ていた。トシの病は重くなり、トシを荷車に乗せ家族全員で実家に連れ戻し、その最後を看取った。トシは「今度生まれるときは強い身体で人を幸せにしたい」と政次郎に語って亡くなった。

1922年、トシの葬列も白い喪服に長い列だった賢治はトシの荼毘を日蓮宗で弔った。

何度も何度も荼毘の火の回りを、日蓮の教を唱え太鼓を叩いて廻り倒れた。そんな賢治に政次郎は「お前の言葉で送ってやれ!」と声を掛けた。「もうトシはいない」という賢治に「俺が聞いてやる、書け!」と抱いた。

賢治は執筆活動に入り、自主出版の詩集「春と修羅を書き上げて政次郎に渡した。政次郎は「評論家の評価がいい」ので、東京の書店を訪ね、売れ行きを聞いた。全く売れない!全て買い取ることにした。それでも政次郎は「書け!」と賢治を励ました。

賢治は「トシの療養地・桜の家で、ひとりで生活する」と家を出た。

1928年(昭和元年)、賢治は農民に科学肥料を使う新しい農業を教えるため「羅須地人教会」を立ち上げ、また音楽に親しみながら、執筆を続けた。

政次郎は家業を次男の清六(豊田裕大)に譲り、新しく金物屋「宮澤商会」として出発することになった。賢治を訪ね「お前の子供は書き物だ。書き物は俺の孫だ!だから大好きだ」と告げた。賢治は「お父さんのようになりたかった」と言い、聞いた政次郎は驚いた!(笑)

そんな中で、賢治の吐血を知った。賢治を医者に診せた。トシと同じ結核であることを知って動転した。

夜、ランプの灯りで賢治の書きものを読んだ!賢治が「アンゼルセンにはなれなかった」と悔やむと「トシの迎えになる。宮澤賢治の物語は本物だ!」と、政次郎は賢治を実家に連れ戻し自分が介護することにした。

政次郎は賢治の手帳に書かれた詩「雨にも風にも負けず・・」を読み、この身体でここまで書けるかと感動した。

1933年9月、賢治の症状は悪化し、臨終を迎えていたそれでも窮状を訴えにくる農夫に、「会いにくるのは大変なことだ」と会い、倒れた。最後まで農民に尽くす姿勢を崩さなかった・

最後の身体拭きを母のイチ(坂井真紀)が「母親の仕事です」と政次郎の手を借りずに行った。賢治は「小さな書店でもいいから、刊行を望む会社に任せてください。駄目な場合は燃やしてください」と遺言した。臨終のとき政次郎は「自分が版行して見せる」と「雨にも負けず、風にも負けず」の一節を諳んじると、賢治は「お父さんに褒められた」と呟き、微笑んで亡くなった。

1934年(昭和9年)、政次郎は出来上がった「宮澤賢治全集」を手にした

 まとめ

政次郎は銀河鉄道列車で旅を続ける中で賢治とトシに出会い、「ありがとがんした」と挨拶して終わるエンデイング。娘と息子を若くして失った政次郎が、何もなしえなかったふたりのために、「宮澤賢治全集」を世に送り出した。これが政次郎生涯の大仕事であり、成し得た満足感で自分が生かされたと感じる瞬間だった。とんでもない息子を持った政次郎ではあったが、爽やかな人生を終えたと思います。

大家生まれのおぼっちゃま育ちの賢治がこれほどの生き狂った男だったとは知らなかった。驚きました。祖父喜助の“死に狂い”を目の当たりにしこれを介護するトシの姿、愛して止まないトシの死。これで賢治は修羅に墜ちた。そこから引き戻したのが父政次郎の「書け!俺が読む!」だった。賢治に書かせたのは家族の絆、愛でした。

日蓮宗に嵌って狂っていく賢治の姿は異常でした。菅田さんが痩せ細って、目を引きつらせ、見事に演じました。

賢治に引き回される政次郎。役所さんがあるときが厳格な父親で、またあるときがユーモアたっぷりのダメ親父を見事に演じ、「この時代にいた人だ」とつくづく思わせてくれる演技でした。

トシの森七菜さん。主役に次ぐ役で、難役でした!よく頑張っていました。今後の活躍を楽しみにしています。

映像も工夫がなされ美しい、よく出来ていました。「風の又三郎」で舞う原稿、なかでも美術がしっかりしていて当時の雰囲気のある映像でした。

遠くに離れている息子や娘に会いたくなり、宮澤作品を深く味わってみたい気分にしてくれました。

            ****