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「ONODA 一万夜を越えて」(2023)一つのことを信じ切った人間の恐ろしさ、凄まじさ!

 

WWⅡ末期、フィリピン・ルバング島に謀略工作員として派遣され、約30年後の1974年に51歳で日本に帰還した小野田寛郎さんと言えば、当時は大変な話題でした

今ではこのことを知っている人もおそらく少ないし話題にもならない。

このような状況ななかで、本作、第74回カンヌ国際映画祭(2021)「ある視点」部門に出品された作品です。「ある視点」で何を訴えた作品なのかとWOWOWで観ました。

フランス・ドイツ・ベルギー・イタリア・日本合作。製作スタッフは全て外国人。出演者は全員日本人という大きな特色のある作品です。

監督:アルチュール・アラリ脚本:アルチュール・アラリ バンサン・ポワミロ、撮影:トム・アラリ、編集:ロラン・セネシャル。

出演者:津田寛治、仲野太賀、千葉哲也、カトウシンスケ、イッセー尾形、他。

あらすじ

終戦間近の1944年、陸軍中野学校二俣分校で秘密戦の特殊訓練を受けていた小野田寛郎は、劣勢のフィリピン・ルバング島で援軍部隊が戻るまでゲリラ戦を指揮するよう命じられる。出発前、教官からは「君たちには、死ぬ権利はない」と言い渡され、玉砕の許されない小野田たちは、何が起きても必ず生き延びなくてはならなかった。ルバング島の過酷なジャングルの中で食糧も不足し、仲間たちは飢えや病気で次々と倒れていく。それでも小野田は、いつか必ず救援がくると信じて仲間を鼓舞し続けるが……。(映画COM)


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感想:

174分の作品。ほとんどが密林・夜間の暗いシーン。派手な戦闘シーンはない、ごく小規模な小野田部隊の行動を描いた物語。すばらしい物語ですので我慢して観てもらいたい。(笑)

終戦後29年間、身を隠し、飢えや病気に堪え、小野田少尉日本軍の再上陸を信じ謀略工作を続けた謎?これが作品のテーマです。

 冒頭、1974年。小野田少佐に会うためルパング島にやってきた風来坊の鈴木(仲野大賀)が川原にテントを張っていた

その下流で小野田は亡くなった小塚(千葉哲也)の埋葬地を尋ね花を手向けていた。このあと小野田は鈴木に会うのですか。ここから、ここに至るまでの小野田の回想に入ります。

小野田は士官学校に入校したが、パイロットの適正試験に不合格で退校を決意するが教官の勧めで

陸軍中野二股分校で謀略工作員教育を受けることになった

ここでの教官は谷口少佐(イッセー尾形。彼の教育に小野寺は強い共感をえた。彼の説くところは、

信頼できる部下を捜せ!少数でよい。

本質は変わらない、中身を色々変え柔軟に考え本質の追求!(佐渡おけさのよさはメロディー、歌詞を買えても楽しめる!)

死ぬ権利はない、兵が望んでもダメだ!自分は自分の指揮官だ!

最後は忠誠心だ!

俺が迎えに行く

ルパング島への出発にあたり小野田は父親を訪れた。父が「どこに行く!」と聞いても決して明かさなかった。父は「陛下には迷惑を掛けるな!死んで来い!!」と励まし送り出した。

1944年の暮れ。ルパング島に爆薬とともに送り込まれた

小野田は「徹底抗戦、遊撃戦に移行する」と師団命令を伝えたが誰も信用しない。第一線の士気はここまで落ちていた。小野田は小隊長の早川中尉(吉岡睦雄)の許可なく小隊を指揮して、進攻してくる米軍を阻止する弾薬を洞窟に隠匿する作業をやり終えた。これに末広少尉(嶋田久作)が「小隊長の許可を取ってやれ!」と文句をいう。早川が病に倒れたので小野田が小隊の指揮を取ることにした。

米軍が艦砲射撃の後島に上陸。小野田は小隊を率いて島の奥地に後退し遊撃戦に移った。

 小野田は広末とは隊を割って別れ、チフス病者を放置し、隊を離脱するものも追わないで奥地に向った。

小野田は「もうよかろう」という地点に至り自分は特殊機関から派遣された工作員だと名乗り、「日本軍が再びここに上陸してくる準備を行う。必ず迎えがくる!決して死なない!」とこの部隊に派遣された意義を明かした。

その後、「賛成するものは手を挙げよ!」と命じた。真っ先に手を挙げたのが島田だった。小野田は賛成者3名で任務を遂行することにして、小隊とは別れた!

ここまでの小野田少尉の行動から分るように、彼は中野学校の谷口少佐の教えどおりに行動している。

しかも歴戦を経た強者たちにびくともしない強靭なリーダーシップを発揮している。今の若い人の中で、戦に敗れ士気のない、食べ物がない劣悪の環境のなかで、これほどのリーダーシップが採れる男はいない。その源は任務だ!その任務の大きさだ!

小野田は島田、小塚、赤井の4名で日本軍がこの島に戻ってくる時の準備に取り掛かった。

ルパング島の地図をつくること。密林に入り、椰子の葉っぱで簡易な小屋を作り、これを中心に周辺の地形を調べ、日本名を付した地図を作る。出来上がると小屋の痕跡を消して次の地点へと移る。

この作業に島田が興味を持ち、小野田はふたりで作業に熱中した。見張りや食べ物の調達が小塚と赤井の仕事になった。こちらのふたりは小野田の任務を認めたが、故郷を思い出し、空腹を訴える。島田と小塚は喧嘩をする。しかし、小野田が止めもせず眺めていた。小野田に人間味がでてきたように見えた

日本軍は上陸したときの拠点となる地域の確保。このために島民に脅威を与えて拠点地域に近づけないようにする。適時見張り、住民を発見すれば銃で威嚇し追い払う。

ある日、見回り中、稲の取入れの農民に出会い。彼等を襲い米を盗み稲に火を放った(野火作戦)。相手の反撃に会い抗戦、赤井が農民を刺殺したことで、この任務に懐疑的になっていった。(1949年2月)。

赤井が空腹を訴える。島田が久しぶりに肉を食べようと言い、小野田も賛成した。山羊を見つけこれを追っていたところフィリピン警備隊に発見され、島田が撃たれた。その後、拠点を転々と変えながら島田の治療に当たったが亡くなり大きな木の元に埋めた。

島田を撃った男を捕獲し赤井に殺せと迫ったが殺せなかった。代わりに小塚が刺殺した。赤井がひとりで島田の墓参りをするというのを小野田は許した。赤井は帰ってこなかった。

日本の捜索隊に出会った。

小野田と小塚は川原を見回っていて、日本人たちがテントを張り大音量で日本の歌を流し「出て来てください!」「私が投降したとき、安心して出て来てください」と叫んでいる。「兄だ!出て来い」と叫ぶ。彼らが去るのを待って、彼らが残していったラジオ、雑誌、新聞を拠点に持ち帰り分析した。そこにはオリンピック、新幹線、インドネシア戦争、自衛隊などの記事があった。父の俳句もあった。

小野田は「日本と中国が手を結び東亜連邦をつくり、インドネシアで米国と抗戦している。必ずここルパングにやってくる」と確信した(ベトナム戦争の見方)。小野田が中野学校で教わった「詞を変えて“佐渡おけさ”を楽しむ」を思い出し、集めた情報で日本の勝利のシナリオを書き上げるというすばらしいシーンだった。小塚はこれを聞き「間違いない!」と喜び、日本軍が迎えにくると確信した。父の俳句を作成日順に並べて横に読むと「内の海で待て!」と読めた。(笑)

ふたりが内の海に出かけ、住民を追っ払って、穏やかな海にここにきて初めて浸かった

誰もいないと農家に入り休んでいた。ラジオで「月に小さな足跡だが第一歩をしるす」という英語と日本語の放送を聞いた(1969年7月20日日本とアメリカが戦争中だと認識していた。

そこに女がいた。油断して女に小塚が脚を撃たれた。小野田が女を射殺し埋め、小塚を背負い退却した。

小塚の負傷。小野田は小塚の脚の傷に集るうじ蟲を排除し、膿を口で吸い取り肌身離さず持っていた軟膏を塗り、献身的に治療にあたった。一時は危ないと思われたが回復した。

津田寛治さんと千葉哲也さんは激痩せで、顔を伏せたくなるシーンでしたが、熱演でした

小野田が「まだ歩くな!」と注意するのが「身体を洗いたい」と小塚が川原に出て水浴をした。小塚が拳銃を失くしたという。ふたりで川中を捜していて「見つかった!」と喜んだところに、フィリピンの警備隊に射撃された。これは罠だった。

小野田が最後の仲間・小塚を失った(1972年10月19日)

ここからは小野田ひとりで任務を遂行することになった。亡くなった者たちに「決して死を無駄にしない」「谷口少佐は必ず迎えに来る!」と信じ、彼らを弔いながら島の偵察を続けていた。

小塚を弔いに川原にやってきたところ音楽が聞こえる(1974年2月20日。近づくと若い男の鈴木だった。鈴木は落ち着いており反抗する素ぶりを見せない!小野田は話をしたいという鈴木の話を聞くことにした。鈴木は酒を勧め飲むが小野田は飲まなかった。「世界を旅していて、小野田さんに会いたいとここにやってきた。一緒に帰りませんか」と誘われ「谷口少佐の命令があれば任務を終える」と返事し、涙を流した。

鈴木は古本屋をやっている谷口を探し出し小野田救出の話をした

谷口は「そんな話は知らない!」という。鈴木が「あなたの命令がないと小野田さんは帰還しない」と話すと、谷口は昔のことを思い出したようで、フィリピン同行に同意した。

鈴木と谷口が川原に訪れ日章旗を掲げ小野田少尉が現れるのをまった(1974年3月9日)。

小野寺少尉は銃を携え軍服で現れ敬礼をした。谷口は任務終了の軍命令を読みあげた。このあとフィリピン空軍の警備の中、フリピン軍のヘリに乗りルパング島を後にした。

まとめ

ヘリからルパン島を見下ろし悲痛な表情を見せる小野田少尉。この表情には日本軍上陸準備をやり遂げた任務達成の喜びの表情はない!如何なる敵と戦っていたのか?戦友は何のために死んでいったか?住民も射殺した、自分の責任は?こんなことが胸中にあったのかなと。このラストシーンは秀逸で津田寛治さんの苦悩の表情がすばらしかった。「プラトーン」(1986)のラストシーンを思い出します。

小野田少尉が生きながらえたのは命より大切な任務があったから!そうさせたのは中野学校で受けた教育。日本は負けない、必ず迎えに来るという信念だった!一つのことを信じ切った人間の恐ろしさ、凄まじさが描かれていた。

 戦争さえなかったら、このような事態は起こらなかったことだけは確かで、小野田さんその人は清々しい純粋な日本人で忍耐強い人だったと思う。

 監督はこの戦争に偏見を持たず小野田少尉良いのよいところを淡々と描いていた。174分が長いか?29年に比べれば瞬間です(笑)まだまだ描き切れなかったというかもしれない。(笑)

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