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「スープとイデオロギー」(2022)イデオロギーには裏切られるが、スープの味は裏切らない!

 

タイトル名、これは洒落ている!と観ることにしました。(笑)

監督・脚本が「かぞくのくに」(2012)のヤン  ヨンヒさん。韓国現代史最大のタブーとされる“済州4・3事件”を体験した母を主役に撮りあげたドキュメンタリー作品

物語は

朝鮮総連の熱心な活動家だったヤン・ヨンヒ監督の両親は、1970年代に「帰国事業」で3人の息子たちを北朝鮮へ送り出した。父の他界後も借金をしてまで息子たちへの仕送りを続ける母を、ヤン・ヨンヒ監督は心の中で責めてきた。

年老いた母は、心の奥深くに秘めていた1948年の済州島での壮絶な体た験について、初めて娘であるヤン・ヨンヒ監督に語り始める。アルツハイマー病の母から消えゆく記憶をすくいとるべく、ヤン・ヨンヒ監督は母を済州島へ連れて行くことを決意する。(映画COMより)


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あらすじ&感想

大動脈流の手術を終えた母親・康静姫(カン・ジョンヒ)が「怖かった!射撃の音。警察が校庭で撃ち殺した。皆の前で、妊婦もいた」などと喋り始めた。その後も事件の夢ばかり見る。母親18歳のとき体験した済州 済州4・3事件の記憶だった

ヨンヒ監督はこの話を初めて聞いたという前作「かぞきのくに」では一時帰国した兄との交流を描いたものだが、母親の体験を知らずに書いたものだった。改めて帰国事業の意味を問うものになっている。

2015年の夏、85歳の母はとても元気で道路に水撒き、これが夫の仕事だったと偲んでいた。

2009年亡くなった父は「お前の結婚相手は朝鮮人ならいい。国籍は問わない、アメリカ人と日本人はダメだ」と言った。(笑)「母ちゃんに全部面倒みて貰った」と笑い、済州島の自慢歌と歌い出す。「帰国事業」も母の強い意思でなされたことが伺われる。

母が父の遺骨をピョンヤンに持って行った。母も同じにして欲しいという。

ヨンヒさんが両親と自分がこれまで歩んできた人生を振り返る

 大阪市生野区、母はここで生まれ育った。この国で暮らす9割は韓国出身者。母は済州島出身者で20歳のときここで父に出会った。父は朝鮮総連大阪の活動家で、母がこれを支えた。3男1女の母親でもあった。  ヨンヒさんが6歳のとき兄たちは帰国政策で北朝鮮に渡った。大学生の長兄は優秀で金日成の還暦祝いのプレゼントとして贈られた。しかし鬱症で苦しみ、ピョンヤンで、母の介護にも関わらず、2009年亡くなった。

母は父の両親、弟、妹を北鮮に送り、兄たちに孫が生まれ、仕送りが増え続けた。母は30年間、毎年北鮮を尋ね、45年間仕送りを続け生活費を与えていた

 これに対してヨンヒさんは「借金してまで援助する必要はない。私はしない!」と促がすが母は返事しない。このことで母が負担になっていた。

ヨンヒさんは学校でも家でも祖国を批判することは許されなかった。教科書の内容に逆らいながら優等生を通し、30歳で日本を跳び出し家族と向き合うことにした。

アメリカの大学院を卒業し、日本に戻ってきた

2016年夏、ヨンヒさんの夫となるべき人、荒井香織さんがスーツ姿で訪ねてきた。

荒井さんは「長野市出身、39歳、今は記者です」と神妙に挨拶。母が「いい娘ではないがよろしく」とにこやかに返す。日本人の新井さんを受け入れ、もうすっかり親子になった感じ。新井さん本人もほっとしたようだった。(笑)

母はまるごと一羽の鶏に40個のにんにく、ナツメを積めて5時間煮込んだ“参鶏湯”を作って振舞った荒井さん、初めて食べる料理、スープに嵌った。

荒井さんは母と一緒にショッピングを楽しみ“参鶏湯”の材料の仕込みを覚え、次は母を招いて“参鶏湯”を御馳走する。

参鶏湯”で出来上がった親子の関係がタイトルの“スープ“の意味です

 父の遺言により、3人に父の遺影と一緒に家族写真を撮った。3人は朝鮮の民族衣装でとてもうつくしい。荒井さんがすっかり朝鮮の人になってしまった。(笑)葬儀屋からの母への案内状に激しい怒りを表すなど、荒井さんの母に対する気遣いも行き届いていた。

2017年11月、済州島から済州4・3事件研究メンバーが母を訪ねてきた

生き残りの人が少ない。記録が消されているので母の記憶は大切な資料となる。母は「川のように血が流れた。人を見つけたら射撃した。祖母から帰れとお金を送ってきたので3歳の妹を背負い、弟を連れて、帰ってきた」「結婚相手の医者がいた。山の部隊員になった。名はキム・ホガン」と話した。

この日から母の認知症が激しくなり、いるはずがない家族を捜すようになった

 夜、真っ暗な家の中を徘徊する。診断はアルツハイマーと下された。言葉は全て肯定するものになって行った。ヨンヒさんは母のいうように合わせることにした。母が革命歌(金日成を称える歌)を歌い始める。

韓国政府が主催する4・3犠牲者追悼式典に参加することにした

パスポートは1回切りのパスポートだった。文在寅大統領による配慮だった。  ヨンヒさん、荒井さん、母の三人が出席。母は車椅子での参加だった。70年ぶりの済州島の姿に母を目を輝かしていた。

済州4・3平和公園の慰霊塔の内部には犠牲者の名が地区ごとに記されていた。母の父母の名を案内人に探してもらうが見あたらなかった。

ここで母に何があったかが素朴なアニメで示される。残虐な殺害シーンはない。

 母がここにやってきたのは15歳のときだった。1945年3月の大阪大空襲で大阪は焼き尽くされ、日本に身寄りのない母と祖母が船でここにやってきた。1945年8月、植民地から開放された朝鮮は二分されアメリカとソ連が進駐し、ふたつの政府が産まれた。38度線での分断を決定づける南部の単独選挙に反対する声が青洲島では強かった。1948年城山で武装蜂起が起こり、非道な鎮圧作戦が始まり島民が巻き込まれた。軍と警察が城山5km以内を通行止にし、動く人影に発砲、共産主義者として無差別に殺害した。その数1万3482人が犠牲になった。母の婚約者の医者は山の武装部隊に行くと去り、山でなくなったと知らされた。婚約者が武装隊にいたとなれば母の命も危ないと祖母が準備してくれた船で脱出。母は3歳の妹を背負い、弟を連れて30kmの道を走ったという。

ヨンヒさんと荒井さんは母を車椅子に乗せこの道を歩いてみた母がどれほど恐ろしかったか、18歳の母の強さ。そして、母についてこの島とこの国について何も知らなかったことを認識した。美しい浜辺も見た。

2018年4月3日、済州4・3 70周年追悼式典に参列

海軍音楽隊が演奏する愛国歌(大韓泯国国家)で始まった。母は何も知らず口ずさんでいた。母は金日成バッチを胸に金日成から拝受した勲章を着けた夫の遺影とともに参加した。

 

文在寅大統領が国として初めて事件に対する謝罪の演説を行った

 このあと4・3研究所を尋ね署長に面会した。母はなにも分からない状況だった。ヨンヒさんが母に代って答えた。

「今回ここにきてあまりにも惨い話で、母は大阪に戻って韓国政府を信じたくないと北の政府を信じ生きて来た。大阪の総連関係者はそういう人が多い。3人の息子を北に送るほど、 済州4・3事件はそこまで影響したのかと。私はアナーキストだからどの政府も信用しない、そこまで韓国を徹底的に否認し北を支持する理由があるのか、 済州4・3事件がそこまで大きいのか理解できなかった。ここにきて、母がこんな故郷を胸にどうやって生きて来たか分かった。皆さんも辛いでしょう。

実は私は心の中で母を責めていた。何故3人の兄を北に行かせたかと。 済州4・3事件を知ったら責められなくなった。困っています」。

墓地にお参りした。見事に整備された墓地だった。母の婚約者の弟さんが生きていて母のことを覚えていることを知った。弟さんは兄をこの墓地に埋葬しないという。

ヨンヒさんたちは大阪に戻り、金日成の写真を外し家族の写真に替えた。そこに北の姪から手紙が届いた。ヨンヒさんは返事を書くことが出来ない。母のこと、映画を撮ったこと、夫が出来て彼が母を愛してくれることで涙が止まらない。アルツハイマーの母が帰国事業という言葉を湧捨てしまった、書けない。いつものとおり送れない手紙になりそうだという。母は家族と暮らしていると思って毎日祈るようなり、今は脳梗塞で入院中。何時の日か、ピョンヤンの父のところに母の遺骨を届けなければと漠然と考えているという。

まとめ:

ドキュメントの凄さをみる作品だった。 済州4・3事件の生々しい映像は出てこないが、出せないないだろうが、母の語る物語と 済州4・3事件後の今を知り、3人の息子を北に送り出し借金してまで家族を支援し続けた45年の歴史が明らかになれば、十分想像できる。

ヨンヒさんが現地を訪れ、「母に、そこまで韓国を徹底的に否認し北を支持する理由があるのか、 済州4・3事件がそこまで大きかったのが理解できなかった。ここにきて、母がこんな故郷を胸にどうやって生きて来たか分かった」と母がアルツハイマーで記憶を亡くした今気づくところに、母親への労わりがしっかり見えて泣ける。

イデオロギー”が屠殺の方便になるイデオロギーってなんなんだ。この記憶は理性を超え、消えることはない。国家のイデオロギーに二度三度と裏切られた母。これに反しスープで結ばれた絆に裏切りがない。母のイデオロギーはここにしかない。絶妙なタイトルだと思った。

帰国政策を支持した人たちの実情を知るいい作品だった。イデオロギーだけでない、家族の絆についてもみるところが多かった。

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