2022年度作品。ドキュメンタリー映画「ぼけますから、よろしくお願いします」(2018)の続編。ここでは95歳の夫が87歳のアルツハイマー型認知症の妻を老々介護する実態が感動的に描かれていました。
自分がどう歳をとるか、また連れ合いの介護をどうするかと考えさせてくれます。これは人生の一大事業です。続編が出たことを知らず、遅ればせながらWOWOWで鑑賞しました。
監督:信友直子、撮影:信友直子 南幸男 河合輝久、編集:目見田健、語り:信友直子。
物語は、
信友監督は前作完成後も、広島県呉市で暮らす90代の両親を撮り続けていた。2018年、母の認知症はさらに進行し、ついに脳梗塞を発症してしまう。入院した母に面会するため、父は毎日1時間かけて病院へ通い、いつか母が帰ってくる時のためにと筋トレを始める。一時は歩けるまでに回復した母だったが、新たな脳梗塞が見つかり、病状は深刻化していく。そして2020年3月、新型コロナウイルスが世界的に拡大し、病院の面会すら困難な状況が訪れる。認知症とともに生きることの大変さや家族の苦労、日本全体が抱える高齢化社会の問題を浮き彫りにしながらも、幸せな夫婦の姿を家族ならではの視線で映し出す。
母親のボケが始まって4年後、脳梗塞で入院して亡くなるまでの信友監督、父親、母親の物語。衰弱していく妻を懸命に介護する夫の姿が描かれ、夫婦の愛、親子を愛が感動的です。自宅介護か施設介護か、延命をしてよかったかと、とても難しい問題に、生きるとは何か、愛とはなにかを感じます。このドキュメンタリーを超えるドラマはない!
あらすじ&感想:
信友直子監督はドキュメンタリー制作テレビディレクター。この作品を記録に残すには理由があった。父は言語学者になりたい夢を持っていたが戦争で断たれ、今の監督にその夢を重ね生きる糧にしている。そして監督が乳ガンに罹ったとき、母は懸命に看病しこの仕事を投げ出すことを望まなかった。ということで物語は監督が乳癌手術に成功し、それを悦ぶ母の笑顔から始まります。そして実家は質素な平屋の一軒家ですが、父の部屋は書物が溢れている。
2014年、母85歳、毎日リンゴを買ってきてテーブルがリンゴの山になる。診断結果、アルツハイマー型認知症であることが分かった。
母は「呆けてないのにみんなが呆けていという」と怒る。93歳の父はちゃんと認識した。ふたりは「どちらが逝ってもさびしい!頑張ろう!」とコーヒーを飲む。ここからふたりのあらたな生活が始まった。
2016年、洗濯物が山と積まれている。母は洗濯しようという気持ちはあるようですがその上に寝込んしまう。(笑)寝そべった母の上をトイレに行く父が跨ぐ。(笑)
こんなふたりの関係が変化するのがこの年だった。父が洗濯し始め、買い物に、料理を始めた。95歳の脚で坂道を歩いてスーパーまでは大変だった。途中で座り込んで、「立たねば何事も進まん!」と頑張る。それでも娘に戻って来いとは言わない。微塵にも「これは家族のため」と言わない父親の凄み!
2017年は新年の「呆けますから、よろしくお願いします」という母の挨拶から始まった。「よう生きてきた、おしゃれでも」と美容室に。ところが4月のある朝、母が「生きていると邪魔になる!包丁で殺してくれ」とえらい剣幕で起きてくる。(笑)父は「ばかたれ!感謝して暮らせ!死にたければ死ね!」と怒って知らんぷり。母が機嫌を直して出てきて父の背中を摩る。(笑)父は「朝のことを気にしている」と笑う。
夫の妻との間の取り方が絶妙です!おもろい夫婦ですね!(笑)
「喧嘩して悪かった」と笑い、ふたりが娘を東京に送り出した。門まで出て何度も何度も手を振った。
2018年9月30日、母が緊急入院。自作映画公開直前の監督が駆け付けた。脳梗塞だった。父が病床の母の手を取ると「手をかけてごめんね」と答えていた。監督には「何もしてあげられないでごめん」という。97歳の父はこの日からひとりで寝るようになった。
父は毎日病院に見舞、それが生きがいになっていった。病院まで1時間の道のりを手車を押して歩く毎日。
監督が「これからどうするの?」と聞くと「ここに引き取る。わしがやるから心配するな!」と答えた。この答が父を強くしていった。その父が病院に急いで転んだと頭を怪我した。母が父の頭の包帯に気付く。「心配するな!」と父。
母のリハビリが始まった。父はひとりで介護するためフィットネストレーニングを始めた。「98歳でこれは凄い」とトレーナーが驚く。
2018年の暮れ。母の脳梗塞が再発。右半身麻痺という症状。医師から「寝たきりになる」と伝えられた。父はそっと涙を拭いていた。手車を押して家に帰る後ろ姿に泣けます!父はめったに罹らない風邪に罹り「寝る!」と床に就いた。次の朝は起き出し、「体力回復!」と病院に出かけた。
2019年2月、父が鼠径ヘルニアの手術。98歳で「おかんを残しては死ねん!」と人生で初めての手術だった。3時間の手術だった。次の日からリハビリをしてしっかり食事を食べた。そして病院に母を見舞う毎日。
6月、アジサイの咲く季節。母は寝たままで呼びかけても反応しなくり療養型病院に転院することになった。転院に途中、父はサプライズで母を実家に連れ戻った。反応しない母が声をあげて泣いた!父は母に「早うよくなって帰ってこい」と励ました。この表情に家族に希望が生まれた。観ているこちらが声をあげました!こういう表情をみなさん見たことがないでしょう!
2019年11月、99歳の父。ひとりで買い物、洗濯、病院通いが続いていた。
2020年正月、母はこちらの問いかけに、口を開けて「ホー!」と反応する。母は食べ物を胃に直接注入する胃瘻という方法で採っていた。父は「早うよくなるんだ、待っている」と声を掛けていた。父には母が生きていることが生きがいだった。
父に「これは延命処置なんだけどよかったのかな?」と問うと「わしは腹が減ったら困るが、分からん」と言う。監督は「家族にとってはどんな状態でも生きてくれることがうれしい」と答えた。
3月、コロナ禍で面接が出来なくなった。医者から「呼吸不全がある何が起きるか分からない」と短時間の面会が許された。母は呼びかけても反応はなくなっていた。そのことを父に話すと黙って聞くのみだった。
次の面会で母に反応が少しあった。この動画を父に見せると「いい表情だ」と喜ぶ。母が生きていることがどれほどうれしいか、生きることへの希望に繋がりる。涙なしでは見られません!この感情を経験しておくことが大切だと思います。う
2020年6月、医者から「近いうちに看取りということにします」と告げられ、父と監督が病室で母に会った。母に反応はないが父は「11月で100歳になる。祝いを貰ったら持ってくる。美味しいもの食べよう」と言葉を掛けた。
6月3日、母は亡くなった。病床で父は「長いこと世話になった。いい嫁を貰った。ありがとう!」と最後の言葉を掛けた。母の目に薄らと光るものがあった。
よくここまで撮ったという映像でした。身体は反応しなくなっても脳は動いている。母は明け方、眠る様に亡くなった。
母の葬儀を終え、家に遺骨を持って帰った。父は「お帰り!この家の人だわ」と遺影とともに仏壇に。父は一緒に居たいと遺骨は墓に入れずそのままにすることにした。
その後、市長さんから100歳のお祝いを戴き「助かった!」と仏壇の母に供えた。(笑)父は「お母さんはいい子を産んでくれた。40歳の遅い結婚だから諦めていた。思わぬいい子を産んでもらった。私の人生は幸せだった!」という。
まとめ:
まだまだ人生での大きな仕事が残っていることを実感しました。これからの生きる目的を貰った感じでした。看取りをすることは人を大きくする。この作品に感謝したいです。
自宅介護か施設介護か、延命をしてよかったか。この問題は映像を観れば分かります。亡くなる直前の母の涙を見せるという映像、信友監督は辛かったでしょう。これで“老いを撮るというライフワーク”を見つけたようですね!
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