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NHK「マンハッタン計画 オッペンハイマーの栄光と罪」(2024)

 

3月29日公開の「オッペンハイマー」(2023)。これに先立ちNHK番組「映像の世紀」(2024.2.19)で放送されたもの。映画の参考になればと観てみました。

なかなかの力作日本の原爆開発視点からの描写もあり興味深かった。何よりも驚いたのはアインシュタインの提言が原爆開発に拍車をかけ、開発者は原爆が人類に何をもたらすかを全く考えていなかったこと。また、原爆投下の成功を米国民に告げる際、ルーマン大統領が微笑む姿に嫌悪した。ゲバラが訪日時「なぜ日本はアメリカを怒らない!」と語ったことを思い出した。

直後に撮った仁科博士監修の「広島・長崎における原子爆弾の影響」フィルムに衝撃を受けた。現在進行中の戦場でもこれほどの惨い映像はない!このフィルムは今どこに管理されているか。

内容

アメリカの原爆開発「マンハッタン計画」を指揮した天才科学者オッペンハイマーの生涯を描く。ニューヨークのユダヤ人家庭に生まれ、ハーバード大学飛び級しながら首席で卒業、「原爆の父」と呼ばれるオッペンハイマーは、アメリカ国内で「戦争を終わらせた英雄」と称えられたが、自分自身は深い罪の意識に苦しんでいた。戦後は、一転してアメリカの水爆開発に異議を唱える。そして赤狩りの対象となり、公職から追放された。

あらすじ&感想

オッペンハイマーヒンドゥー教の一節を思い出し「我は死、世界の破壊者」と語るシーンから物語は始まる。

1928年、原子力物理学の幕開け。

ドイツ・ゲッチンゲンに世界中から才気ある若者が集っていたゲッチンゲン大学原子力物理学の世界一の電動だった。その先頭にいたのがハイゼンベルグ(のちのナチ・ドイツの原爆開発者)で、“未確定性原理の発見”でノーベル賞を受賞。この近くで学んだものに日本の仁科芳雄(のちの日本の原爆開発者)がいた。

ハイゼンベルグの論文を読みたいとやってきたのがオッペンハイマーユダヤ人でハーバー大を飛び級で卒業した天才。人物評価は“人つき合いが悪い”だった。傲慢なやつと観られていた。ハイゼンベルグの指導で7個の論文を書き博士号を取得して米国に戻った。

帰国したオッペンハイマーは27歳でカリフォルニア大の助教授ごなり、ここで親友でありライバルのアーネスト・ローレンス(のちの米国原爆開発担当)と出会う。ローレンスはオッペンハイマーのはるかに上を行く業績を上げていた。

1930年、ローレンスが実験装置の研究でサイクロトロンを発明し、ミクロの粒子を超スピードで衝突させその変化を調べる研究が始まり、これが科学界の潮流となり、オッペンハイマーはその陰の存在だった。1940年ローレンスは“原子破壊の発見者”としてノーベル賞を受賞した。公演で「これまで発見されたものを凌駕する宝物が眠っている」と原爆を示唆した

アメリカの原爆開発が始まった

1939年9月1日、ナチ・ドイツ薫がポーランドに侵攻開始。

1939年8月、アインシュタインが時の大統領・ルーズベルトアメリカが原子爆弾開発に着手するよう書簡で訴えた。「ドイツが極めて強力な新型爆弾を開発するかもしれない。アメリカも核分裂を研究する物理学者と緊密に連携し、信頼できる人物にこの仕事を託されますように」と。

1942年、マンハッタン計画の発足

3つの研究施設からなる。ハンフォード(プルトニュウム)、ロックアラモス(爆弾)、オークリッジ(ウラン)。リーダーはローレンス。ローレンスの推薦でオッペンハイマーがロスアラモスの責任者に選ばれた

オークリッジはU235濃縮ウランの製造。7万5千人の新しい町が産まれ、有刺は細かく細分化され、従業員はそのひとつを担当し何が作られているか分からなかったという。

 ロックアラモスは爆弾の製造。原爆を戦争に間に合うよう作ること。6000人の研究者と軍人。オッペンハイマーは同胞ユダヤ人を排斥するナチスドイツへの怒りにもえていた。

このころドイツではハイゼンベルグが主導者で、アメリカに先んじて、大量の燃料ウランをチェコで発見、ノールウェーに化学工場を確保していた。アメリカはしっかりこの情報を得ていたという。

日本の状況。開戦3カ月後の記録映画「科学の殿堂」(1942)仁科芳雄博士が登場。サイクロトロンが存在し、ウラン濃縮実験に利用されていると述べている。

1945年。初夏。アラモゴート爆破試験場で史上初の原爆実験を実施

オッペンハイマーは「人間に何をもたらすかは視野になかった。技術的に美しいものを見たらまず試してみる。成功して初めて何をするかと話す。原爆はまさにそうだった」と述懐している。

1945年5月、ナチスドイツが降伏。ドイツの原爆開発の拠点が見つかった。小型の原子炉だった。ハイゼンベルグは連合軍の捕虜となった。

日本の戦況も決定的段階にあり、ロスアラモスでは原爆開発が問題視されだした。この声を封じたのがオッペンハイマーだった

なぜオッペンハイマーは研究を推し進めた?

 マンハッタン計画が始まって2年11カ月後、原爆が完成した。

1945年7月16日午前5時29分45秒、アラモゴート爆破場。原爆“トリニティ”が爆破した。中に詰められたのはプトニュムだった。オッペンハイマーは9km離れた場所で観測し「うまく行った」と喜んだ。

何故人間への影響を調べなかったのか

この情報はポッダム会議に出席中のトルーマン大統領に伝えられ、成功したとスターリンに伝えた。スターリンは「日本に使ってくれ!」と言った。トリニティはテニヤンに運ばれた。

8月6日の広島投下

オッペンハイマーは投下を指示する将校に「雲のある日は中止、決められた高度を守れ、高いところはダメだ」と指導した。

8時15分投下。(3時間後、爆心から3kmで撮った写真が示される)地獄だった!しかし、オッペンハイマーは知らなかっただろう。

 トルーマン大統領は控室で笑みを見せて、カメラに「史上最大の科学的ギャンブルに20億ドル以上費やし勝利した。金額以上に偉大だったことはこれを見事に隠しきったことだ。そしてこれを完成した科学者の頭脳だ」と語った。

ケンブリッジ近郊に収容されていたハイゼンベルグは広島の原爆について「それは原爆でない。アメリカに居るのは変人だ、うまくできなかったんだろう」と所見を述べた。

日本の仁科博士は自責の念に駆られ「腹を斬るときがきたと思う。米英の研究者は日本の研究者に対して大勝利を得た」と述べた。

3日後長崎にプルトニュウム型原爆が投下。広島と長崎で死者21万人にのぼった。

19458月14日、ポッダム宣言受諾

終戦の翌月、オッペンハイマーはトリニティ実験の跡地を計測した。オッペンハイマーが現れたことで誰が原爆を作ったかが明かされた。オッペンハイマーは原爆の父と言われアメリカの英雄となった。戦前まで科学界のスター・ローレンスはその座をオッペンハイマーに渡した。

原爆投下後のオッペンハイマー

終戦から数カ月後、広島・長崎の状況視察者の報告会が開かれた。長崎の視察者が「たてがみの片方が完全に焼かれた牛がうまそうに草を食んでいた」と話すとオッペンハイマー「原爆が善意ある武器のように語るな!」と注意したという。

オッペンハイマーはこの発表会で原爆の人類への影響を悟ったのでなないか。

 トルーマン大統領に招かれたオッペンハイマーは「自分の手が血で汚れておる」と話すとトルーマンは「それは私だ」と言い、その後、「あの者は泣き虫だ、二度と連れてくるな!」と言ったそうだ。

軍主催の祝賀会で、オッペンハイマーは「誇りは深い懸念にある。原爆が各国の武器庫に加われば、いつか人類はロスアラモスと広島の名を呪う」と演説し、ロスアラモス所長を退任した。

そのころ日本では一本の記録映画が撮られていた。「広島・長崎における原子爆弾の影響」で監修者は仁科博士だ。2時間40分の映画は原爆の炎と放射線の被害を克明に捉えていた。仁科博士は初めて「自分が作ろうとした原爆が人間に何をもたらすかを知った」と述べている。フィルムは試写のあと米軍に押収された。

1952水素爆弾の実験に成功、米ソの核競争が始まっていた。水爆開発を推進したのはローレンスだった。ローレンスはこの成功で栄光の座を取り戻した。

一方、政府の原子力委員会のアドバイザーとなっていたオッペンハイマーは核開発競争に警告を発していた。米ソで核を管理することを訴えていた。

1954年、オッペンハイマー原子力委員会から定職処分を受け、さらに赤狩りで追及された。かっての親友ローレンスが弁護することはなかった。ローレンスは「オッペンハイマー二度と政策に関与させてはならない」と政府側に伝えていた。

1960年9月、オッペンハイマーが訪日。しかし、広島・長崎を訪れることはなかった。記者の問い「原爆関わったことを後悔しているか」に「後悔はしていない。それは申し訳ないと思っていないということではない」と語った。

1967年2月18日62歳で亡くなった。

まとめ

映画「オッペンハイマー」を観るポイント。

 オッペンハイマーは何を作ったか?その苦悩をしかと確認したいと思った。何かをどう見せるか?

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