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第40回「幸村」

 信繁はその名を捨て、父昌幸に託された名「幸」と去り難き九度山村の「村」をまとい、「幸村」として大坂城入城を決意する。思い悩んでの決意。秀吉や父の遺言、三成や吉継の想い、祖母とりの最期の言葉などを回想し「大坂城入城は自分に与えられた運命である」と悟る。そしてきりの後押しで「思うが儘に生きる」としての決心。なによりも常に信繁に寄り添ってきた“きり”の助言は胸を打つ。
信繁・堺さんの言葉、姿に力がこもり、生まれ変わったという感じがよくでている。めちゃめちゃに暴れてもらいたい。
信繁の決心の発端となる大坂城の窮状を訴える且元。豊臣を思う熱い言葉の且元の語りは、豊臣への忠誠心はだれのも劣らぬものであるが、正直さが逆に取られ裏切り者とみられ無念であったろう。且元役の小林隆さん、豊臣家を思って涙する演技は見事。

九度山の信繁に二人の訪問者
・信繁の前に現れたのは宇喜多秀家の家臣明石全登、「左衛門佐信繁さまお迎えに参りました。私とともに大坂に来て欲しい。徳川との戦で豊臣方の将として一軍の采配を取って欲しい。敵は徳川」と訴える。「わしは捕らわれの身」と断ると会って欲しい人がいるとかって信繁とともに秀吉に仕えた且元に会うことになる。
・信之は秀忠からの「大坂が随分きな臭くなり江戸に来るように」という文を読み三十郎に出発準備を命じるが、手に麻痺があるようで文を落とす始末。
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・「左衛門佐殿、ご無沙汰いたした」と片桐且元が現れる。「豊臣と徳川の間はそれほど悪くなっているのですか。最初に言っておきますが、わたしはここを離れる気はない」と信繁。「いまや戦は避けられぬ。話だけは聞いて欲しい。関ケ原の戦い以降、次々と重臣たちが世を去って、気付いたら側近は私のみ。ことの発端は方広寺の開眼供養。太閤殿下が進められていた神殿の造営は大地震で一端頓挫したが秀頼公のお声がかりで5年前から始まったとその顛末を語り始める。

片桐且元が語る方広寺鐘銘事件の顛末
今年は太閤殿下の17周忌、それに合わせて開眼供養するというのが秀頼公の考えであった。「家康公がよく了承しましたね」と信繁。大仏殿の建立を進めたのは大御所様。「家康公の願いは大坂城に貯め込んだ金を使わすこと」と信繁。ここで鐘に刻む銘を南禅寺の「清韓」という僧に頼みその案で進めることにし、秀頼公の許しはすぐでたが、大御所様から異論が、つまりは難癖をつけられた。再度お願いし出来上がった案には趣向があると言い「国家安康」は国が安らぐという意味でここには家康の二文字が隠れているというもの。さらに「君臣豊楽」、「これは皆が楽しく過ごす意味だが見方を変えれば豊臣を君として楽しめと読めなくもない。家康公も秀忠公も喜ぶ」と言われた。
大御所の許可を得て鐘に刻み2か月後に見事な鐘が出来上がったとき大御所から開眼供養の日延べを申し渡された。文字の中に自分に対する呪詛の言葉があると言われ、「国家安康」わが名を二つに割るなど縁起が悪いというもの
大野治長は「草案は見せてあるのだから鐘が出来上がってからでは言い掛かり」と言い「供養が来月ということで変更せず大御所様を説き伏せろ」という。清韓に正すも「あちらの言い分」とバカにされるという塩梅。お茶々様にお伺いをたて大御所さまに会うために駿府城に赴いた。本多正純からは「何が祝か、これは呪いだ。豊臣の名は上下が逆になっていて「呪詛返しだ。逆さにして呪いを祝いに換えたのだ」と言われる。何故鐘ができる前に言わぬと反論するも、「豊臣が仕掛けた徳川に対する重大な侮辱だ」と突っ返される。なんとか大御所に会って誤解を解こうと1ヶ月待っても面会できない。ところが、大蔵卿局には家康イメージ 2の面談叶い、「私が会えぬ」ことを責めるので、本多正純さまの”ことを収める3カ条”「秀頼公は大坂城を立ち退くまたは大和に移ること。お上様を人質として関東に送ること。秀頼公は諸大名と同じく江戸に参勤すること。叶わぬ場合は徳川に異心ありとして豊臣を討ち滅ぼす」を授かっていると言った。
実のところは本多殿はそこまでは言わなかった。「逆心のないことを形でしめせ」とだけだった。
帰る道すがら自分で考えた。大蔵卿局があまりにも憎らしゅうて考えた。その嘘のせいでさらにとんでもないことになった。嘘がばれ、これを耳にしたイメージ 3茶々様は「できぬ」と言い、大野治長には「策を労したのは貴殿ではないのか。これを手土産に徳川に召し抱えられる手はずではなかったのかと疑われる。茶々様が「そんなことをする男ではない。そのような度胸も智恵もない」と取り繕ってくれ収まったが、「鐘は作らねばならぬ。この責めは負うてもらう」と大野治長が言う。ことは収まると思うたが、わしを裏切りと見た大野らは暗殺を企んでいた。
「秀頼の元を去るのは辛いが、わしがいると豊臣の足並みがそろわぬ」と大坂城を去ることにした。
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その後さらにことを悪い方にしてしまった。わしが去るのを徳川は手切れと見なし「大坂城攻め」を決めた。わしは一人で戦の火種を作ってしまった。
「家康は初めからこうなると決めていたのでは」と信繁。大坂城には浪人がぞくぞくと集まっている。宇喜多さまは八丈に流されこの十数年諸国を渡り歩いている。左衛門佐、わしは大坂には帰れん。お主の太閤殿下への忠義は誰よりも深い。秀頼公のために一肌脱いでくれ! 徳川を迎え撃ってくれ。「残念ながら、初めに申し上げたとおりでございます。お力にはなれません」「わしは大軍を率いたことがない。私は捕らわれの身、戦が好きでない。私は死んだものと思ってほしい」の信繁。「まげて頼む、左衛門佐!!」と叫ぶ且元。
臨場感ある且元の語りに家康のしたたかさが浮き彫りになる。且元は、豊臣に対する忠誠心はだれよりも劣らぬ者であったが正直すぎた。正直であったがゆえに相手の悪意が読めなかった。逆に裏切り者とみられ三成の植えた桃木(実を付けていた)をみて大坂城を去る且元、無念であたろう。涙です。
 
○信繁の「大坂城入城」決意イメージ 4
信繁は一度は全登や且元の願いを断ったが、「本当にこれでよいのか」と考えを巡らしているところにきりがやって来て「且元からの加勢の要求があったこと」を話すと「いつかはこの日が来ると思った」ときり、「行きたいと思ったが、いまの私にはもっと大事なものがある」と信繁。「行きなさいよ」、「止めると思った。あちらには人を不幸にする淀様がいる」。「貴方は行きたいと思っている。助けを求めている人がいる、貴方を必要としている人がいる。真田安房守は徳川と戦って二度勝ったひと、安房守の息子、この人に従っておけば間違いない、はったりでいいのよ。あなたの幸せなど関係ない。大事なのは誰かが貴方を求めていること。真田源二郎がこの世に生きてきたという証を何か残してきたの。小県にいるころは父に振り廻され、大坂にきては太閤殿下に振り回され、何を残したの。聚楽第での落書きの咎任人は見つからず、沼田の談判もしたけれど最後は北条に取られ、最後は氏政様を説き伏せに小田原城に忍んだがあとで会いにいったなんとか官兵衛さまの手柄に。私の好きな源二郎様はどこに行ったの。ガムシャラで向こう見ずで、賢くて、明るくて、度胸があって、きらきらしていた真田家の次男坊はどこに行ったの。私が胸を焦がして大坂までついていったあの時の源二郎様は、もう言わない二度と」、信繁をよく知る者はすでに九度山を去っており、きりの助言はみごと。
信繁は「お前のいうことなどとっくに心得ているよ」と声を荒げるが「おまえに言ってもらう方がこころに滲みた」と礼を言う。

・信繁は月を見ながらこれまでの思い出に浸る、秀吉の思い出その最後の言葉「秀頼のこと頼む」。茶々のことば「不思議な糸に結ばれています。離れ離れになっていても戻ってきます。同じ日に死ぬ」。三成の「家康の首を取る」、景勝の「義をないがしろにするもの断じて許せぬ」、秀家の「殿下のために生き、殿下のために死に、殿下のために舞うのみ」、氏政の「天下を分ける大戦をやってみたかった」、吉継の「お主の瞳に熾火が見える。信じる道を行け」、伊達の言葉「大軍を率いて敵を蹴散らしたい」、母の「済々堂々と向き会えないのか」、信尹の「わしのようになるな」、父のことば「いずれぶつかる。豊臣につけ、徳川に勝てるただひとつの10年かけた策」、祖母トリのことば「人は定めをもって生まれてくる。遅いも早いもない、おのれの定めに気付くかどうか。ばばは見ているぞ」。「大坂城入城」は運命であったと悟る。これまでの信繁の生きて来たエピソードをすべて回収。
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・信繁、大坂城入城を決め、新たな人生への出発にと名を改めることにする。六文銭、天下一統、この文字を一字ごとに切り分けてこの壺に入れる。畑で里いもを引き抜き「これを煮てたべよう、全部だ」。「先々のために残さないでも」と訝る大助に「いいのだ」。「父は新しい名を決めたい。一字は決まっている「幸」、これは父の「幸」だ、真田家一族が受け継ぐもの。残りはお前に決めてもらう。籤で決める。八百万神に託すのだ」と信繁。これはまさに父昌幸が判断に苦しむときに採った手段。父子の絆を感じる。
大助が籤を引くと「村」「九度山村の村。おもしろい」。「やり直しますか」と大助。「面白い。真田左衛門佐幸村だ」と満足そうな信繁。この日、戦国最後の名将が生まれる。
来週「入城」、真田丸いよいよクライマックス、楽しみです!!
 
記事1 20161011
真田丸」第40話は15・0% “くじ”で「幸村」誕生