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「私は、マリア・カラス」(2017) MARIA BY CALLAS

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世紀の歌姫マリア・カラスの実像に迫るドキュメンタリー。オペラの知識もなく、彼女の人生に興味をもち観ることにしました。
 
監督は、これが長編デビューとなるトム・ヴォルフ。自叙伝の語りと手紙の朗読は「永遠のマリア・カラス」(2002)でカラスを演じたファニー・アルダンです
 
1977年の突然の逝去により未完となってしまった自叙伝、友人や愛する人に宛てたプライベートな手紙など、マリア・カラス本人の「歌」と「言葉」のみでカラスの人生を再構成。“半数近くが今回初公開”となる素材群、写真をもとにカラー化したモノクロ映像などから、プロフェッショナルとしての信念と、ひとりの女性としての幸せに揺れる歌姫の真実を描くというもの。
 
世界有数のオペラ劇場に案内してくれ、世紀の歌姫マリア・カラスのすばらしい歌を聞くことができます。そして、彼女にまつわるゴシップとその真相が明かされる。
 
28才年上の男性との結婚(1949)、大統領やセレブが駆けつけたローマ歌劇場の舞台を第一幕で下りたことへのバッシング(1958)、メトロポリタン歌劇場の支配人とのバトル(1958)、ギリシャの大富豪オナシスとの大恋愛とその結末(19601975)。
 
次第に声が出なくなっていく運命、そしていくつもの彼女にとっては理不尽なバッシング。
最期の言葉「残されたのは空腹と痛みのみ。私は愛する人を不幸にした」「舞台復帰を願い、必死にリハビリに励んでいます。観客のみなさんに感謝します。感謝のみです」を残し亡くなったことに、涙しました!!
 
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冒頭の1970TVインタビューで、
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「わたしのなかには、マリアとカラスのふたりいる。どの瞬間もわたし」と答える。そして蝶々夫人の一節を歌う彼女の姿を見せられると、愛する人をけなげに待ち夫と思っていた人が他の女性と結婚するという蝶々夫人が彼女に重なり、彼女が遺した言葉「私の人生は歌のなかに綴られている」につながります。彼女が歌うオペラの主人公の人生が、彼女の人生になっていることを暗示しています。
 
1923、ニューヨークに生まれ、小学校の卒業式では歌っていた。母が音楽家にすると決め、これには反抗できなかったという。
 
1937ギリシャに移住。年齢をごまかして13才でアテネ音楽院に入学。ここですばらしい師:エルビラ・デ・イダルゴに出会い、感謝しているという。
エルビラは「イタリアの野外劇場の舞台で歌ったが、強力なオーラがあった。頭がよかった。そして勉強家。完璧だった」と証言。「ピアノも好きで、教室には5時間いた。高音声がスムースに出た」と言います。
 
1952、フレンチェで「シチリアの晩鐘」。1953、アルステで「リア王」。1954ミラノ・スカラ座で「椿姫」。1955、イギリス王立歌劇場で「ノルマ」。1956、ニューヨークで「ノルマ」。1957ミラノ・スカラ座で「仮面舞踏会」。
世界有数のオペラハウスで公演を行い、いずれも大成功を収め、世界的スターに。「セレブの世界から出れなくなった」と言う。
ここでは、すばらしい彼女の歌に、エチゾチックな美貌に、魅入りました。( ^)o(^ )
 
19581月、ローマ歌劇場のこけら落し公演で体調不良を理由に途中で舞台を降り、「わがまま」「「傲慢」と大バッシングを受ける。
これについて、「これまでずっと順調だったが、リハーサル後部屋が冷たく声がかすれる予感があって、全く声が失われた。『ノルマ』の前売りは全部売られていた(休めなかった)。早めに会場に入り湿布を繰り返したが(二幕目は)駄目だった。翌日から私への怒りが爆発。(私には)悪意はなく、気管気管支炎だけだったのに。堕ちる女に生きる道はなかった」とインタビューに応えている。
 
2か月後、リスボンで「椿姫」(さよなら、過ぎ去った日々よ)を「道をはずした女をどうか許してください。受け入れてください。なにもかも終わったしまった」と歌う。この歌詞は、当時のカラスの心情に通じるもので、芝居とは思えない。
 
11月、このバッシングのなかで、渡米し「新しいものをやりたい」と提案したところ「生意気だ」とメトロポリタン歌劇場支配人から契約打ち切りを一方的に告げられる。
 
12月、フランスオペラ座のコンサート。「ノルマ」(清らかな女神よ)を「どうか鎮めたまえ!地上に平和と安らぎをそそいでください。あなたが治める天の平和を地上にも・・」と歌い、大喝采を受けます。すばらしい高音での歌唱に感動させられます。
このシーンはとても長く、バッシングが収まることを祈っているように聞こえ、とても純粋な人だと思いました。
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一連のバッシングは、彼女の強い自尊心への反発、これまでの成功に対する嫉妬のようにみえ、彼女には気の毒であったと思います。
 
1959年、イタリアガルダ湖の別荘での休養。
インタビューに応じ、「美しい街が好き。いつも悲劇ばかりではない」と赤いドレスでくつろぐカラス。雨の中の散歩姿、ぶらんこを楽しむ姿があった。
レシピが好きでこれが唯一の趣味、もうひとつがカリヨンだという。
「悲劇は面白い」と言い、「理想的な家族を築くことは難しい。両立は無理」という。すでにオナシスとの交際は始まっていた。
 
夏、豪華船クルージングに招待され一気にオナシスに惹かれていく。インタビューに、「最高の人。彼もそう思っている。チャーミングで自然児。長所が多い」と語ります。クルーズから戻り、夫に離婚を宣言。しかし、夫は離婚を拒否し、長い裁判闘争へと入っていく。
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1960年に入り、ローマでの出来事にオナシスとの交際は加わり、カラスへの風当たりは厳しいものなってくるが反論することなく、ふたりは世界を回り、パーテイやコンサート、カンヌ国際映画祭にも出席する。
「幸せで声が変わってきた」と言い、髪型が変わり笑顔が多くなり、ロンドンで「カルメン」(恋は野の鳥)を「恋よ、恋!あなたが嫌いでも私が好きになる」と歌う。歌に酔っているようで、オナシスに恋することですっかり人が変わったようです。キャラクターに恣衣する女優というのが分かるシーンでした。
 
1964年、ロンドンで「トスカ」(歌に生き、恋に生き)を「恋に生きて、どんな人にも悪いことはしません。貧しい人には救いの手を差しのべてきました」と歌い、今のオナシスとの恋の喜びを一杯に表しているようです。
 
1965年、再び体調を崩しまたも舞台を途中降板してしまい、エルビラに「昔のように高音がでるよう勉強を続けます」と手紙を送っています。喉に負担をかけない歌い方を模索していたようです。
 
1966年、アメリカには温かく迎えられたが、アメリカの市民権を放棄しギリシャ国政を獲得し、夫と離婚に至る。
 
196810月、オナシスがジャクリーン・ケネデイと結婚したことを報道で知る。
インタビューに「精神的に打ち勝つ方法を教えて!息が詰まって、耐えられない」と応え、エルビラに「一生をかけた男、あんまりです。乗り越える力を与えてください」と手紙で訴えています。
しかし、この痛みも「今にきっと私が必要になる」と変化していく。
 
1969年、「女王メデイア」で映画に初出演。監督バリゾーニとの関係が話題になる。しかし作品は興行的に失敗し、監督との関係は断ち消えとなる。
 
1970年、インタビューに、「永遠には歌えない。女優もいい。仕事する可能性が広がる。将来についてはゆっくり考える」と応じ、とてもやさしい表情に見せていました。
オナシスの話に及ぶと「彼は謝りました。喧嘩をせずよい議論をしました」と語った。
「オナシスのために歌を諦めたのか」の質問に、「歌を捨ててもよいと思った。彼を幸せにするために」と答えています。彼女は真剣にオナシスとの幸せな生活を望んでいたんですね!
 
1973年からロンドンを皮切りにワールドツアーに出る。最後が日本でした。
ロンドンでは白いドレスでアンコールに応え「私のおじさん」(プッチーニ)をにこやかに歌い父への感謝を示しました。ベルリンでは「彼が幸せそうになるから」とオナシスへの思慕を露わにします。
 
1975315日、オナシスが亡くなりました。インタビューで「最後に会って死は近いと感じた。何もいわなくても分かった。傷つくことはあったが愛していた」とオナシスを愛おしみました。
 
1977916日、心臓発作で53歳にして息を引きとりました。最期の言葉は「残されたのは空腹と痛みのみ。私は愛する人を不幸にした」「舞台復帰を願い、必死にリハビリに励んでいます。観客のみなさんに感謝します。感謝のみです」というものでした。
 
あの美声と美貌では、望んでも神はマリアとして生きることを許さなかったでしょう! 彼女が歌うオペラの主人公の人生が、彼女の人生になっていました。 
悪いうわさが先行したようですが、事実はとても誠実に人生を生きた人でした。 
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