
あらすじ:
1960年東京オリンピックを控える田畑政治(阿部サダオ)は開会式を研究すべく、ストックホルムオリンピックの記録を見入る。時は1912年7月のストックホルムオリンピック開会式。
「NIPPON」のプラカードを持ち、四三(中村勘九郎)と弥彦(生田斗真)が日本初のオリンピック選手として入場。そして競技が始まる。大森兵衛(竹野内豊)に緊張を解かれた弥彦は100mの短距離で好タイムでゴールするも順位は惨敗し、200mも惨敗に終わる。プレッシャーと戦い続けた弥彦だったが、晴れやかに最後の400mの走りに向かう!
感想;
プラカードの国名表記は、日本の、高師の人々の想いでここに立っているという四三の意見に治五郎が日本魂で結ばれることが大切だという同意したことで、NIPPONに決まったという。JAPANでは戦えないと日本人の魂をもってオリンピックに臨んだということに感動を覚えます。
入場式はまるで、そこにいるような感じで、これが日本人が初めて参加したオリンピックかと、涙が出ました。本物のスタジアムが美しかった。

もしこの弥彦の挫折体験がなかったら、四三は日本に帰って来れなかったかもしれない。
弥彦の言葉が日本短距離選手の目標達成となり、96年後北京オリンピック男子400mリレーでメダルを取る原動力となったという。弥彦の奮闘、言葉に頭が下がります。
初オリンピック大会の雰囲気に飲まれることなく、冷静な大森の言葉「相手はタイムだ。タイムという同じ敵に立ち向かう同志と思いたまえ」は感動的な言葉でした。
孝蔵(森山未来)も、四三と同じように不安で、不安で高座に立つことになった。一生懸命に師匠の芸を覚える。うまいとかまずいは関係ない、鞍数でしょう!
今回は、弥彦がフリチンになるという、四三とふたりの水浴で裸を見せるサービス回でした。でももういいですね!(笑)
世界の中の日本に視点を当て、負けたを選手に温かい目線を送る大河。これまでにないもの、このまま続けて欲しいですね。きっと後世、光があたります。これこそが大河です!
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開会式のプラカードに国名を日本人どう表記するかは、四三が譲らず、容易に解決しなかったが、最初JAPANがいいといっていた弥彦が賛同し始めた。
四三が「熊本を離れて上京し、東京から大陸にやってきて1ケ月。くじけそうになるたびに、熊本の人々、東京高師の面々の顔を思い出して乗り越えてきた。私はJAPAN人ではなく、日本人です」と話すと、これを聞いた治五郎が「頼もしい!自分の到着が遅れて、皆の気持ちがバラバラになったと思ったが、お互いに認め合うから、意見を言い合える。相互理解が大切だ。双方一理」ということで「NIPPON」と決まった。
7月6日、開会式当日は風ひとつない快晴だった。入場行進前に、スタジアム横の広場に、28か国、3000人の代表が集まった。イギリス、ロシア、アメリカの選手団は100人を超えたが、日本が四三と弥彦の二人に治五郎に大森が加わり、ベルリンに留学中の田島金治さらにダニエル(エドヴィン・エンドレ)が加わっての6名だった。田島が「NIPPONではわからん」という。
安仁子(シャーロット・ケイト・フォックス)がカメラ係としてスタンドから観覧することになった。

午前10時半、2万人の観衆に拍手で迎えられ入場行進が始まった。四三がプラカードを弥彦は国旗をもって行進し、観客席から声援を送る安仁子に応えて四三がプラカードを掲げた。記録映像には旗の影になって金栗の姿は映っていなかった。

このころ東京の三島邸では、シマ(杉咲花)が3週間前に着いた弥彦の絵葉書「戦意喪失の状態、走る気になれない。母上、兄上、これが最後の便りになるかもしれません。短い人生でしたが・・・」と読み上げると・・。
突然、和歌子がシマから絵葉書を取り上げ、「心配せんでもよか!弥彦は勝ちます。薩摩隼人の底力、見せてやりますと書いてある。字が読めなくても分かる」と言い、豪快に笑い飛ばした。
ロッカールームで大森が「短距離はタイムを争う競技だ。相手は一緒に走る選手ではなく、タイムだ。タイムという同じ敵に立ち向かう同志と思いたまえ」と弥彦に走るに当たっての心得を説いていた。四三は「我が友に勝利を」と祈っていた。

弥彦は4人の選手とスタート、四三は観覧席から声援を送ったが、弥彦がすぐにほかの選手に引き離され、最下位でゴールした。1位の選手から10M以上差を付けられていた。しかし、弥彦が笑っていた。大森がタイムを示し自己最高記録だと伝えていた。

四三は大森に明日の1万メートル走を棄権しマラソン1本にすることを伝えた。
大森の病状は悪化していった。
4日後に弥彦は200m走の予選に出場したが、結果は惨敗だった。
これが日本の新聞で報じられている頃、孝蔵は円喬(松尾スズキ)から「君には何かがあるから」と初高座に上がることを告げられた。
何の助言も得られず、孝蔵はひとり、円喬の所作を真似てみること
しかできなかった。

川で水浴びをしていて、ラザロ選手の走りを目にし、「死がかかっている」という言葉が思い出された。
400m走の予選前日、四三が弥彦の部屋にいくと裸で体操をしていた。四三が「日本人が短距離に向かないという理由」を聞くと「言葉どおりだ。日本で無敗の僕が、100mも200mも駄目だった。しかし明日の400mは楽しい、徹底的に負けてやる」とにこにこしている。
四三は「俺はダメです。もやもやが居座っている」というと「それをプレッシャーというんだ。西洋人も同じだ」と教えられ、もやもやの正体が分かってほっとする四三でした。
12日の400m走予選。四三は大森に代わって弥彦のコーチを任され、弥彦が走る姿を正面から撮影するよう頼まれていた。予選が始まると、選手は弥彦も他にひとりしかいなかった。5人のうち、3人が棄権していたのだった。予選通過は2位までなので、完走すれば準決勝に進むことができる。
弥彦のスタートは見事であったが、中盤で追い抜かれ、それでも全力で駆け抜けゴールした。見とれて四三はシャッターを切るのを忘れていた。ここは、四三のカメラ目線で興奮して生田さんの走りを見ました。

四三は「楽しかったか」と聞くと「ああ、全力を出したことで十分だ」と笑顔を見せた。このふたりの友情に熱くなりました。

7月14日、四三が運河の水で冷水浴をしていると弥彦がやってきてフリチンになり「ピヤーピヤーと声を上げ、一緒に水を浴びる。「三島さん、400m、見事な走りでした。俺も三島さんのように笑ってゴールします」と固く決心するのでした。
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記事 20190318
<いだてん>第11回視聴率8.7% 四三と弥彦、夢の大舞台へ!