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「バード」(1988)パーカーは麻薬と酒にやられているが、記憶に残る殉教者、死んだら伝説になる!

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クリント・イーストウッドが監督し“バード”の愛称を持つ革新的ジャズミュージシャン、チャーリー・パーカーの生涯を描いた伝記ドラマ。アカデミー賞音響賞を受賞しています。ジャズはよく分かりませんが、夫婦の物語として鑑賞しました。

麻薬と酒漬けで侵された胃腸の痛みに耐えながら、カウント・ベイシー楽団とのセッションで「へたくそ!」とシンバルを投げつけられた嘲りに報いるように、“命を削って”自分のジャズを追い求めるパーカーと彼の才能に惚れ、パーカーの苦しみを共有して懸命に支える妻チャンの“腹を決めた”生き方に感動しました。

クリント・イーストウッドの作品として「ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場」「ダーティハリー5」に次ぐ作品ですが、“監督として描きたい人生観”はこの中のなかにあり、この作品が1992年許されざる者に繋がり、作品賞など4部門でアカデミー賞を獲得するという大きな評価を得たように思います。

監督:クリント・イーストウッド、脚本:ジョエル・オリアンスキー、撮影:ジャック・N・グリーン、音楽:レニー・ニーハウス、編集:ジョエル・コックス

出演者:フォレスト・ウィテカーダイアン・ヴェノーラ、マイケル・ゼルニカー、サミュエル・E・ライト、キース・デイヴィッド、マイケル・マクガイア、ジェームズ・ハンディ。


Bird (A Film by Clint Eastwood) - Trailer

あらすじ(ねたばれ):

1954、ニューヨークで人気者となったサックス奏者チャーリー・パーカーフォレスト・ウィテカー)は薬でその地位を失い、不治の病の愛娘プリーの入院費稼ぎにと家族をニューヨークに残して親友のディジー・ガレスビー(サミュエル・E・ライト)を頼りロサンゼルスで演奏していたが、突然プリーが亡くなり、その悲しみに耐えられず薬を飲みカルフォルニアで8か月入院治療することになった。

ニューヨークに戻りステージに立ったが、テイジーと一緒でなく自分の演奏が出来ないと酒を飲み、店を辞めて家に戻って妻チャン(ダイアン・ヴェノーラ)に仕事の不平を漏らし、薬のないことでいら立っていた。チャンはこんなパーカーをまともに相手にしない。絶望したパーカーはチャンの目を盗んでヨードを飲んで、再度入院となった。そんなパーカーに「作曲とチャミー・モレロとのツアー話」が来る。

チャンは医師に呼ばれ「精神病での治療が必要」と入院を勧められるが、「パーカーは才能で生きている。音楽を生み出す力に人生が掛かっている。彼に必要なのは心でなく、身体の治療です!」とこれを断り、自宅で家族とともに過ごし療養させることにした。

パーカーは1920年8月29日カンザスカンザスシティで誕生。薬物中毒死した父同様、チャーリーもすでに15歳で薬物中毒状態だった。

無名のパーカー(15)が「18クラブ」のコンテストで選ばれカウント・ベイシーとのジャム・セッションで、バードの未熟に立腹したドラマーからシンバルを投げつけられ、猛烈に回転しながら“空を飛ぶシンバル”が襲い、ベイシーから「新人じゃなく、くそのチャリーだ」と罵られた悪夢。このトラウマで一時も音楽を忘れることが出来ない。

退院しての帰り、「作曲とモレロのツアーを引き受ける」と話すパーカーに、チャンはディジーがニューヨークに戻ったことを伝えたが「今さら会えない!何時かまた!」と。これが悔やまれる!

物語はなぜチャンがこの決断をしたか、パーカーの活躍その栄光と影、結婚生活が語られ、彼の最期が描かれます。エピソードがジャズ世界の話で、素人には分かりづらいですが、大要は掴めます。(笑)

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1943、パーカーはディジーのバンドに入って芽が出た。ディジーは「バードヤードだ!」と紹介してくれた。パーカーは夜でも彼の家を訪ね、出来た曲をサックスで吹いて「譜面にしてくれ!」と依頼する仲となって行った。そんな彼にカルフォルニアツアーを誘われたが「薬が買えない!」と断った。

チャンが「バード!」と声を掛け、パーカーはクラブでよく見るチャンに「音楽に詳しいな!」と声を掛けたことでふたりは意気投合。しかし、チャンは軽口を叩くパーカーに注意した。パーカーも演奏仲間から「チャンには手を出すな!」と注意されていた。

チャンの部屋を訪ねて本音で話し合った。チャンは父親がナイトクラブの関係者、通称ブロードウエー・ベンと言われ、幼いころ誕生日に楽団を連れてきてくれたことを話した。一方、パーカーは15歳の時ひどい痛みを感じ、それが断禁症状だと知ったこと、チャンといると凄く安らぐと告げた。チャンはパーカーのパーカーの人柄が気に入ったがまだ身体は許さなかった。(笑)チャンはダンサーでシカゴ公演に出掛けた。

夜チャンがベッドに横たわっていると、仲間に演奏させて、白馬に乗ってパーカーが迎えにきた。(笑) ふたりは白馬に乗ってクラブに。そこでダンスをしてその後で結ばれた。パーカーはディジーと組んでハリウッドに行くことを告げた。チャンは前夫との間に子がいた。この結婚はまだ母親には話してなかった。これから演奏に行くというのにサックスがない。サックスを質に入れて馬を借りていたのだった。(笑)

1946、パーカーは冬をカルフォルニアで過ごしたが神経衰弱に陥った。原因は慣れない環境だった。演奏スタイル“ビバップ”が受け容れられなかった失望感。規則による麻薬入手が困難さだった。

クラブに入る前に、薬を喫っていて、そこでパーカー追ってここにやって来たというレッド・ドロニー(マイケル・ゼルニカー)と出会った。「薬はやるな!」と注意した。クラブで吹くロドニーのトランペットにパーカーが加わった。この演奏に興味を持った伯爵夫人ニカと出会った。ディジーから契約解消を言い出され、パーカーはニューヨークに戻った。

チャンの「薬は断った。ロスでは酒に走っただけ。席を満員に出きる奏者でトラブル抱えてない人がいる?チャーリーが使えるのよ!」という後押しで、パーカーはニューヨークでのライブ契約が取れた。家族は大きな家に引っ越し、パーカーにとっての自分の子・プリーに会った。「俺に似てない?」にチャンが微笑んだ。

1949ニューヨーク52丁目に「バードランド」という店を持てるようになった。オープンまで待てないとパリに資金稼ぎに出た。

パリ公演は大盛況で「残って欲しい」と誘われたが「自分の国からは逃げない。カルフォルニアも病院前も(笑)バードランドにしてやる」と薬断ちを宣言して帰国した。

帰国し、バードランドが開くまで間があって、ニューヨークにやってきたロドニーに誘われユダヤ人の結婚式パーティーで吹いた。これが大うけだった。実はチャンが仕組んだもので、ロドニーにチャーリーが薬に陥らないよう監視させていた。(笑)

まだバードランドが開くまで時間があると、ロドニーを誘ってクインテッドで10日間の予定で南部を廻ることにした。

ロドニーに黒人用の部屋を与え「黒人になって歌え」と、ブルース歌手アルビノ・レッドの名で唄わせ、これが大当たりだった。しかし、ロドニーが薬に嵌ってしまい、パーカーは悔やんだ。

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ニューヨークに戻りバーロランドのステージ。「最高のジャズだ!」と大反響だった。チャンも招かれ、ここでニカ夫人と対面、挨拶を交わした。

パーカーの酒量が増え始め、ロドニーが「40歳まで生きたいか?」と注意する。「生きる!」とパーカー。バーを出たところで麻薬捜査官のエステヴェス(キース・デイヴィッド)に捕まりロドニーの逮捕を知らされた。

メンバーを組み替え、カーネギーホールでも公演。家族も広い家に引っ越し、子供は三人となり、穏やかな日々であった。しかし、パーカーの身体は音を上げていた。

帰宅して寝たっきりの娘・プリーを巡って、チャンと諍いを起きる。パーカーは言葉は乱暴だがチャンの気持ちを大切にし“とても繊細な人”だということが分かります。プリーの病はパーカーにとって大きな負担となっていた。

パーカーはエステヴェスに逮捕され「演奏許可書」を取り上げられた。法廷で「私には週に何度も医者に掛かる2歳の娘がいる。執行猶予でなく服役するので演奏許可書の取り上げを止めて欲しい」と訴えた。しかしこれは却下された。

パーカーは娘プリーの入院費稼ぎにロサンゼルスに行くことにした。チャンは反対したが「演奏するのは俺の仕事だ!心配するな!家族を守る!」とロスに発った。チャンが空港まで送る車で、カーラジオから流れるロドニーの歌を聞いた。まるでパーカーの死を予見し、悼むような歌だった。

ロスでディジーを訪ねた。ディジーは厳しくパーカーの薬使用を注意した。「黒人の俺がなんで頑張るか?黒人は信用ならんと思っている白人を見返すためだ!俺は改革者、お前は記憶に残る殉教者だ。お前は死んだら伝説になる!お前は逝ってから称えられるが俺は世間の一部だ。死んだら忘れられる!」と語り、励ました。パーカーはディジーに寄り掛かって泣いた!

演奏の途中で苦しくなり一時休憩としたが、そのとき娘プリーの死がつたえられた。パーカーは一晩中、薬と酒を飲みながら、チャーリーに慰めの電報を打ち続けた。パーカーは救急車で精神病院に収容され、8か月間をここで過ごした。

ここでやっと冒頭シーンに繋がりました。

パーカーはチャンに連れられて家に戻り、チャンの母親とも一緒に療養生活に入ったが、麻薬捜査官のエステヴェスがやってきて「やってるやつの名を吐け!」という。パーカーは「今年で死ぬ!」と断った。(笑)

パーカーはロドニーを訪ね、チャミー・モレロとのツアーに参加することを話すと「本気か?」と聞く。パーカーは自分のジャズスタイル“ビバップ”を生み出したのがモレロに誘われ、そこにいた歌手の歌に合わせて吹いていたとき1939年だと明かした。

パーカー一家はチャンの母親の家、ウエストチェスターに引っ越し、静かな田舎暮らしをしていたが、モレロに会いに行くことにあした。娘が「パパお一緒に!」というのを振りほどいて、チャンが「電車でいったら!」というのに車で出掛け、懐かしい「クラブ18」に立ち寄った。なんとストリップ劇場になっていた。パラマウント劇場に入るとバスター・フランクリン(キース・デイヴィッド)が踊りながら吹いている。パーカーは驚き「何だ!」と聞くとロックンロールだという。

時間を守らなかったためモレロに会えず、パーカーはどこに車を駐車したか分からないほどチャンが持たせてくれた薬を飲んで、やっとニカ夫人の邸宅に辿りついた。

パーカーがチャンに「芝生も家も手入れしないといけない」と電話を入れ、TVを観ながら亡くなった。検視官が「心臓麻痺、年齢58歳」と死因を下した。実際は34歳だった。

葬儀はディジーが話したように、ジャズ界を挙げての壮大な葬儀だった。

感想:

時代はすぐにロックの時代に移って行った。パーカーが入院して加療していたら時代に取り残されていた。パーカーの選択、生き方に間違いなかった!

演奏シーンが随所にあり、その音はジャズ通で知られるクリント・イーストウッドの拘りのすばらしいものだそうですが、わたしには分からなかった。ただただ、フォレスト・ウィテカーの演奏シーンに見惚れていました。映像もミュージシャンの演奏姿や街の風景など当時の風情をしっかり残すという凝ったものですばらしかった。

夫婦愛には泣かされました。同じ夢を共有する夫婦、夫にとっての何が大切かを、夫以上に考える妻に感動しました。黒人の妻として、夫の音楽センスに惚れた妻の生き様が、夫の生死の選択権を握って、そこで下した判断は見事でした。

物語のなかで当時の作品としては麻薬や人種差別についても的確に描写されていました。何故この作品品がアカデミー賞作品賞にならなかったかと・・。

パーカーは麻薬を痛み止めに使い、人には決して進めず、止めろと忠告する側だった。ディジーもことあるごとに薬を使うことを戒め、捜査官のエステヴェスが活躍し、物語全般として薬を使ってはならないというメッセージはよく伝わったと思います。

そして人種問題について、パーカーが白人のチャンと結婚し母親もこれを許すという物語ですから、当時としては画期的なことで物語だったと思います。ディジーが薬を止め約束を守れと諭すシーンで、黒人としての矜持がしっかり描かれよかったと思います。

この作品はクリント・イーストウッドの作った音楽映画と言われますが、パーカーを通して「人の生き様」を描き、この生き様がこれ以降の作品に大きな影響を与えていると思えてならない。

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